KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ジョージア大学へ

今日はジョージア大学(UGA, University of Georgia)のラボマネージャーである飯吉(いいよし)さんに大学を案内してもらう日だ。朝、部屋に電話をもらって降りていくと、てっきり一人で来るものと思っていた飯吉さんが女の人と一緒だったので、最初は彼とは思わなかった。女の人はひろみさんという方で、飯吉さんの婚約者であった。というわけで、四人でジョージア大学へのドライブは始まった。

ジョージア大学へ

ジョージア大学はアトランタから離れた学園都市アセン(Athens)にある。車で1時間ほどだと聞いていたのでそれほど遠くないのかと思ったら、そうではない。車で走ってみるとアメリカの新たな面が見えてきた。もっとも広い部分で片側6車線の道を時速120-130キロでぶっとばすのである。ちょっと街を離れると、道の両側にはほとんど何もない。爽快ではあるが、このまっすぐな道は居眠り運転に気を付けなくてはならないだろう。この道がタダで、しかもガソリンが日本の値段の1/3だと聞くと、日本の道路・自動車政策はなにかおかしいような気がする。

アセンは美しく潤いのある街であった。アトランタダウンタウンのようにビル風が吹き抜けるような冷たさがなく、ヨーロッパの町並みに見るしっとりとした感じがあって歩いていても楽しい。店を冷やかしたあと、昼食をとると、ジョージア大学に案内してもらう。大学の中も車社会である。縦横に道が走り、至る所に駐車場がある。まあ、大学のキャンパス自体が広大なので少し動くにも車が必要なのかもしれない。学内バスも走っているようだ。

ラボの様子

飯吉さんの所属しているところは、ジョージア大学の教育学部(College of Education)内にあるLPSL, Learning and Performance Support Laboratoryというところである(訳せば、学習とパフォーマンスの支援に関する研究所という感じか)。この研究所の親分がHannafinさんで、教育工学の本でしか知らなかった人と会えたのは感動であった。Hannafinさんはいろいろな本や論文に出てくるのでもう大御所かと思っていたのだが、会ってみたら、若々しいのでびっくりした。

ラボは教育学部の建物のワンフロアーを占めており、かなり広い。たとえば、マックがずらりと置いた部屋、ウインドウズマシンの部屋などが(授業時間以外は)解放してあるのをみるだけで施設が充実していることが分かる。

マスター・ドクターコースは高度にシステム化されている。パーティションで7つから8つほどに仕切られた部屋は、そのパーティションひとつずつが一つのプロジェクトに割り当てられて使われている。それくらいのプロジェクトが同時に動いているわけである。飯吉さんはそうしたプロジェクトの総合的なマネージメントをしている。マスター・ドクターの学生はそうしたプロジェクトにはいっていく。プロジェクトはどのように始められるかというと、企業や公的機関にプロジェクトを売り込み、資金援助を取り付けるところから始められる。

マスター・ドクターの学生にもコースワークがある。つまり授業があるわけで、ゼミに出て、あとは自分の研究をして論文を書くだけという日本の状況とはちょっと違う。他の大学のマスターコースからここのドクターコースにはいってきた根岸さんという人に会った(彼も飯吉さんもICUの出身である。世界で活躍する、おそるべしICU!)。彼によれば大学によってそのプログラム(授業、研究環境、教授の指導体制など)に大きな差があり、よりよいプログラムを求めることによって大学を移ることは珍しいことではないということだ。これも日本とは全然違う。

よく勉強せざるを得ないシステム

「システム」ということばを日本語でもよく使うが、本当に意味が分かっているかというとそうでもない。糸川英夫がこんなことを書いていた。---小さい子どもが靴を脱いで上がるとき、たいてい靴はばらばらになります。そこにチョークで靴の形を描いておいてあげるのです。そうすると次からそのチョークの形に従って靴を置くようになります。これをシステム的な考え方というのです。

鈴木克明さんはこんなことを言ったように覚えている。「教育工学の目的は、どんなにダメな先生でもこの方法に従えば、一定水準の教育ができるというそういう方法を提供することだ。」これもシステム的な考え方を指向していると思う。しかし、おそらく日本の教師にこういうことをいうと、やんわりと拒否されるのではないかと思う。日本の教育研究者たちも同じことをすると思う。彼らにとって(表面上はともかく)教育とはシステム化できるものではないと信じているのだ。そういう人は「要は人材だ。人だ」ということをいうが、よい人材が自動的に集まり、機能し始めるようにするのがシステムなのである。

この研究所を見ているとシステムがうまく機能している。ぶらぶらしているひとはいないし、みんな仕事についてはえらく熱心である。ヘッドであるHannafinさんも朝8時から夕方5時まできっちり働く。教授とはいえtenure(終身雇用権)を取るためには、土日を徹して研究し、論文を書き、本を書くわけだ。学生もよく勉強し、研究するわけだが、そのように自然にしむけるシステムが機能しているわけだ。表面だけを見てアメリカの大学生はよく勉強する、と言う人がいるが、飯吉さんに言わせれば、それは勉強せざるを得ないシステムと環境があるからであって、まったく同じ状況に日本人とアメリカ人を置いてみたら、日本人の方が自己コントロール力が高く、よく勉強するのではないかということだ。なるほど、そんな感じもする。

「アメリカの教育工学」の基盤

日本で教育工学をフィールドにしていると、「日本の教育工学」と「アメリカの教育工学」との間には大きな溝があるような気がする。おなじ「教育工学」という領域を研究しているとは思えないことが多いのだ。飯吉さんはこういう。---一つはアメリカでは教育工学のニーズが学校だけでなく企業の中にもあること。日本では、企業内教育は人事部の仕事になりすべて自分の会社の中でまかなってしまうことが多い。しかし、アメリカでは教育部門を外部に委託することが多い。また、その教育のスーパーバイズを教育工学の専門家が行っていることも多い。もう一つは軍での教育からのニーズだ。そういえば、日本の自衛隊の教育で教育工学者が活躍しているという話は聞いたことがない。

こうした状況を考えると日本の教育工学研究がいまひとつ「足が地に着いていない」感じがするわけが分かる。飯吉さんのラボでは、プロジェクトベースで研究を進めているということを書いたが、そのプロジェクトは自分のやりたいことを外部の企業や公的機関に積極的にデモンストレーションし、売り込んで研究資金を獲得してくるのだ。その一部でプロジェクトについた学生の金銭的な援助もされる。プロジェクトが運営され、実質的に成果を上げていくことが、そのまま研究所の存続に関わってくるわけで、こうした状況では宙に浮いたような研究ではなく、実質的な研究が求められることになる。

しかし、アメリカでこんなに教育工学の研究が進み、成果が上がっているのに、どうしてたとえば算数の国際学力比較ではアメリカは他の国に負けているのだろうか、という素朴な疑問がある。しかし、これは逆に考えた方がいい。つまり、だからこそ教育のシステム化が急速に求められているということだ。ジョージア州では他の州に比べて子どもの学力が低いそうで、そのために州は多くの予算を教育のために組んでいるとのことだ。日本では子どもの平均学力は高いが、ノーベル賞受賞者数は少ない。アメリカでは学力の分散が大きい。そのため平均点は低くとどまる。教育の平等とは、チャンスが平等に与えられているということであり、日本の「義務」教育というのとは意味あいが違うのだ。

エスタブリッシュメントの大学外で教育工学が盛ん

アメリカで教育工学研究が盛んなところは、インディアナ、ジョージア、ペンステートなどの大学で、西海岸、東海岸のいわゆるエスタブリッシュメントの大学ではない(ちなみに各州は2つくらいの州立大学を持っており、University of ○○と、○○ State Universityという名前になっている)。これは面白い現象で、飯吉さんによれば、教育工学のような学問では、どちらかというと研究中心のエスタブリッシュメントよりも教育によりいっそう熱心な大学でより盛んに行われているということだ。

また、飯吉さんの研究所も教育学部にあるように、日本とは逆に工学系ではなく、学習研究のラインに位置づけられているようだ。日本では「教育工学」という訳語のために工学の一部という感覚があり、それが教育学部での教育工学を相対的に弱くしており、これは日本の教育工学にとっても、教育学部の価値の再認識にとって不幸なことだ。名前を変えるだけでは解決する問題ではないが、教育工学を学習研究と学習支援というラインでもう一度位置づける必要があるだろう。

今回はちょっと長くなった。飯吉さんからこの日記のリクエストをもらったので、飯吉さんにもお送りします。もし誤解している部分やコメントがありましたらください>飯吉さん。一日親切に案内していただいたことを感謝しています。