KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

貧乏は自由

 以前このニュースで、あまりにも研究補助金が当たらないことを嘆いた(No.11)。しかし、その後いろいろと考えてみると、補助金が当たらないこともいいのではないかと思えるようになった。キーワードは「貧乏は自由」である。このことを書きたい。

 考えてみれば、毎年補助金が当たっている人は大変である。補助金をもらったからにはなにか研究しなければならない。何か機械を買ったり、謝金を払ったりして予算を消化する。お金を使うということは意外に疲れる仕事だ。「お金を使うのだったらまかせてよ」とあなたは言うかもしれない。しかし、なんでもかんでも買っていいというお金ではないのだ。研究に関係のあることに使わなければいけない。モノをたくさん買えば、置場所に困る。古くなった機械と取り替えるにしても、移動させたり配線を変えなくてはならない。ソフトが新しくなればインストールし直し、また自分用にカスタマイズしなくてはならない。実に疲れる。そんなこんなで研究は進んでいないのだ。

 また、一度補助金に当たってしまうと、次の年も当たらなくては寂しい。去年は何百万円ももらったのに今年はゼロ円というのはものすごく寂しい。そこで一生懸命研究計画をでっちあげる。こんなふうにして、最初は研究をするためにお金をもらうはずだったのに、だんだんと、お金をもらうために研究をすることへと逆転してしまうのだ。そうなるとこれは、サラリーマンと同じことだ。研究をしてその代償にお金をもらうのだ。しかし、サラリーマンよりもさらにかわいそうなのは、そのお金も自分の自由にはならないお金なのだ。全部研究のために使ってしまわなくてはならない。研究がんばったよね、と自分をほめてあげて、ついでにそこいらで一杯やることも許されないのだ。ああかわいそう。

 つまり補助金をもらうことの最大の害悪は、研究そのものがつまらなくなってしまうことだ。これは日常的な心理学で、よく体験する。たとえば、庭の雑草を引き抜くことは、そのこと自身が面白いからやるのだ。それが終わって庭が少しでもきれいになっていれば、ますますうれしい。しかし、「千円あげるから庭の雑草とってくれない?」と言われて引き受けたとすれば、雑草取りは単なる「労働」に等しい。千円をもらうかわりに、雑草取り本来の「楽しさ」を失ってしまったのだ。仕事が終わって喜ばしいはずのきれいな庭を見ても「ああ、これでたった千円か」という気持ちしか生まない。仕事が千円によって汚されたのである。しかも、一度そういう体験をしたら、もう千円なしでは雑草取りを自発的にするということはあるまい。なんと罪深い千円なのだ。

 幸いなことに私の研究はあまりお金がかからない。そりゃ、何か欲しいものはないかといわれれば、最新のマルチメディア・ラボラトリーが欲しい。3スパン程の部屋にゼミもできたり、実験もできたりする、こじんまりとした、しかし、最新鋭の施設が欲しい。そこで人間の生産性(あるいはおもしろく生きる方法)についてを実践しつつ、研究したい。とはいえ、実はそんな施設がなくたって、そういう研究はいくらでもできるのだ。私の研究には元手があまりかからないのだ。機械がなけりゃ、借りればいいし。

 というわけで、補助金の全然当たらない私は楽しく研究ができているのである。どんなもんだ。しかし、補助金が当たれば、私の研究はますます楽しくなるだろうと確信している。私はそんな端金で研究の楽しさを失うようなヤワな心は持っていないからである(一億円くれるというのなら話は別だが)。

 来週はなんでも文部省からお役人が来て、科研費の説明会を開くらしいので、顔を出して見るつもりだ。「能書きいわんでいいから、当たる申請書の書き方をおしえんかい」とでもぶーたれてくるつもりだが、小心者なのでできないだろうな、ははは。この文章も貧乏の誇り高さを書いているつもりが、最後にはみみっちくなってしまったな、うむ。