KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

情報教育コースでの七年半

この文章は、情報教育コース設立十周年の記念冊子への原稿として書いたものです。chiNewsの一つとして収録しておくことにしました。

 早いもので、もうここに来て、七年半になる。十年の4分の3である。情報教育コース(当初は「教育情報」コースであった)ができて十年経つというから、その4分の3に立ち会っていることになる。いい機会であるから、ここでその日々を振り返ってみたい。

富山大学赴任前夜(1990年)

 富山大学に赴任する前、私は早稲田の情報科学研究教育センターで助手をしていた。三年余の助手の期限が切れて、浪人生活がほとんど始まってから、富山大学で採用された。人事は水物であるし、大学に定職を得ることが特に簡単だということもなかったので、私は場所があるなら日本全国どこへでも行くつもりだった。それでも「富山」と聞くと、三十年間東京で暮らした自分には遠い土地のような気がしたし(実際、旅行でも行ったことがなかった)、そこでは雪がたくさん積もって二階から出入りしたりする、という話を吹き込む友人がいたりで、不安がなかったわけではない。しかし、今まで二階から出入りしたことはないことからもわかるように、こうした不安はそこに住めばすぐ解消されるものである。この体験は、あとで述べるように、JICAでタイへ一年間派遣されることを決断したときにもいくらかの影響を与えているかもしれない。

 話は少しさかのぼる。二年間のサラリーマン生活をやめてから入った、早稲田での修士課程、博士課程、助手の時代は、はじめは楽しいピクニックのようであったが、だんだんと登りが険しくなり荷物が重く感じられるようになってきた期間であった。就職するためには、最低限何本かの査読論文が必要であったのだが、自分にはとうていそんなものは書けないような気がしていた。教授に頼ろうとしない自分の性格も災いした。この時期に一番大切なことは、自分が関わるに値する重要なテーマを見つけ、それを実行可能な具体的研究計画にまで分解することと、自分の得意な技能(たとえばメカに強いとか、子どもが好きとか、統計が強いとか)をそこに生かすことなのだ。しかし、それを自分自身でできる学生はまれであり(この時期は自分を客観的に見るということが苦手なのだ)、もし大学の教授に手伝えることがあるとしたらまさにこの点なのである。それを理解せずに私は一人で苦しんだ。研究を少しでも進めるために、論文や本を読めば読むほど自分にできる研究はもうないのではないかと思い、暗くなった。

 自分の人生の方向を決めるような人との出会いというものが誰にでもあると思う。そのころの私は自分の方向を決めるのに少しでも関係ありそうな人を無意識に探していたのかもしれない。教育学部の牧野達郎先生からは厳格な心理学(あるいは科学一般)の方法論を学んだ。一方、人間科学部の野嶋栄一郎先生との出会いは私を実験室心理学から教育のフィールドへと向かわせた。このころに死ぬ思いで集中的に書いた3本の論文は、それぞれ、記憶の基礎過程、説明文の読みと理解、そして、MS-DOSの学習環境をテーマにしたものであり、これらのテーマのばらばらさは、このときの自分の研究上の位置づけが分裂気味だったことをよく物語っている。同時にそれから先の私自身の研究の方向性も暗示していた。その後もまた、いつでも私は基礎と応用、あるいは厳格な科学的方法論と複雑な実践現場との間を右往左往することになるからだ。

 そうして、私が富山大学に職を得たのは、1990年の7月であった。

一期生(1991年)

 私が富山に来ると、すぐにコースの一期生が待っていた。一期生というのはどこでもそうなのか、あるいは自分の初めての教師生活の開始と時期がだぶったからそう感じるのかわからないが、そのときの学生はいまでも印象深い。明るく、ある意味で、はちゃめちゃな彼らであった。山西先生も今のように分刻みで行動を縛られることもなく、いろいろなところへみんなで遊びに行った。学生気分の私は(実際よく守衛に学生に間違えられた)彼らと一緒に乱痴気騒ぎをした。それは都会の大学生の方法とはかなり違っていたが、富山ではこれが普通なのかもしれないという妙な思い込みで、気にしないことにした。いま冷静になって考えると、やはりあの一期生のころはタダゴトではなかったと確信する。

 落ち着く頃には卒論指導の仕事が待っていた。1991年には一期生が四年生になっていたからである。いま手元には一期生の卒論抄録集がある。卒論の抄録冊子を作るという伝統はこのときからずっと守られている。教育情報コースができたばかりで、初めての卒業生を出すという段階から、私が関わることができたというのは本当にハッピーなことであったように思う。つまり自分たちの思いつきやアイデアを次々と実行に移すことができ、良いシステムはそのまま伝統となり、悪いものはすたれていったのである。これは、硬直化した多くの大学組織の中では希有なことである。その意味で、今でもこのコースは大学教育の実験室、といって悪ければ、実践的研究フィールドなのである。言い換えれば、ここでおこなわれていることは最先端のことなのだという自負がある。

タイでの一年間(1992-93年)

 大学の生活にやっと慣れたかという時期に私はタイに行くことになる。1992年の10月から一年間であった。そのときのいきさつを私が書いた『タイの一年間の超個人的報告書』という冊子のあとがきから引用しよう。

 いやあ、いったいどうしてタイになんて来てしまったんだろう。きっかけはこのプロジェクトを企画している京都教育大の堀内先生が富山大の山西先生に送ったプロジェクトへの協力のお願いの手紙を見せてもらったことに始まる。めちゃくちゃ忙しい山西先生が一年も大学をあけることなど逆立ちしても不可能というわけで、山西先生が「こんなのがあるけど、どう?」と言って私に手紙を見せてくれたときに、私が「こりゃおもしろそうですね。行こうかな」という軽いノリで話に乗ってくるとは山西先生も思っていなかったんじゃなかろうか。そりゃそうだ。第一期の卒業生をやっと出したばかりの新課程・情報教育の学生さん一学年40名をあっぷあっぷしながら4人の先生で持っているところで、その一人が一年でも抜けるのは大変なことだ。

 その時私は二人の師におうかがいを立てていた。心の師はこんなめちゃくちゃな助言をした。「必ず後悔するような無節操な道を選べ」。もう一人、学問の師は「行って来なさい。自分にとって必ずプラスになるよ」とまともな助言をくれた。なんだかひどく対照的な二つの助言ではあったが、行きたまえということでは一致していた。こう見えても私は師の言葉には素直に従う良い子なのだ。それで心は決まった。他人の迷惑をかえりみず。

 どうやら私には2年目のジンクスだかなんだか知らないが、2年目に何か起こるようになっているらしい。学部を卒業してはいった会社はちょうど2年で辞めて大学院にはいり直した修士課程は2年で修了。これは普通なんだが。博士課程2年目で助手になった。そしてなんとか富山大に就職して2年目にこれである。つくづくタイに2年いなくて良かったと思う。もし2年もいたら、タイの愛人とか作ったりして、きっと人生変わっていたに違いない。私はそろそろ落ち着いた生活をしたいのである。

 はたして、これは予見されたように無節操な道であったか。そのとおり。教養部廃止やら大学院開設やらでばたばたしている折りに同僚には迷惑をかけた。山西先生には過労死だけはしてほしくない。帰国したら温泉に行ってのんびりしましょう。せっかく土地を買って家を建てたのに半年も住まないで空き家にしてしまった。なんでも便りにきけばその家に雀が巣をかけたそうな。うるうる、新築なのに。親父が死んでしまった。容態が危ないことはタイに来る前から分かっていたのだが・・。せめてもの救いは日本への一時帰国が間に合って、そばにいてあげられたことである。

 確かに無節操な道では会ったが、それにもかかわらず、タイの空は広く、夕日はメコンに輝き、大仏さんはいつも微笑んでいる。必ず後悔するだろうと取った道はもう引き返すこともなく、思い出にはなっても、後悔がにじむことはない。何かが終わることは新しいことが始まることで、そのたびに僕はうれしくなる。「次の道は?」とタロットをひいてみたら、出たカードは「チャレンジ」。やれやれ、南国ボケが直るまでしばらくかかりそうだというのに。

大学院開設(1994年)

 タイから戻ってくると、忙しい日々が待っていた。技術科教育の大学院修士課程が開設され、私はそのスタッフに入った。技術科教育という名称ではあるものの、情報教育コースを卒業して修士に進みたい学生がいれば、彼らを受け入れる場所となり、それは大いに意味のあることであった。第一期生は、2人であった。

 大学院生が研究室にいるということは、ただ単に人数が増えるということとは違う質的な変化を生み出す。大学院生は、いわば「研究をして飯を食う」という少数特殊な人生の見習いをしているのであり、それは学部生にとっては異質の存在なのである。そのことが学部生に対していい影響を与え、彼らの研究に対する意欲を刺激することになる。大学院生は学部生にとって、もっとも身近な先生であるのだ。

充実の体制(1996年)

 1996年度になり、コースのスタッフは陣容がそろってきた。コースには新たに黒田卓さんが加わり、また実践センターには堀田龍也さんがはいり、この二人が実質的に情報教育コースに力を尽くしてくれることになる。このことにより、卒論指導をはじめとする指導体制に全体的にゆとりが生まれ、カリキュラムも充実していくことになる。これ以前では、一人の先生に、卒論の学生が十人以上つくということもあり、ほとんど不可能な事態をしのいできたのだが、これ以降は卒論生も五〜四人前後という非常に適切な規模に収まることになる。

 黒田さん、堀田さんが加わることによって、日本全国の大学の中でも非常にまれな人材が集結したことになった。つまり教育工学の研究を標榜する人材が一カ所に集結したという意味で、これはめったにないことであった。日本の大学では、一つの専門に対して一人の教員しかとれないのが常識であるから、山西、向後、堀田、黒田という四人それぞれが独自のアプローチをしているとしても、そのメインフィールドが共通の教育工学という土俵であったということは本当に奇跡的なことなのだ。

 これに大森さんを加えたコースのコアメンバーは、コースの運営に対してさまざまな改革をしていくことになる。たとえば、教官の意志疎通を図るためのメーリングリストを運営したり(現在までに千通以上がやりとりされている)、またメールだけでなく顔を合わせて話し合いの機会を持つために、毎週水曜日は「パワーランチ」と称して話をしながら昼食を取ることにしている。

現在へ(1997年〜)

 1997年度からは、新課程の改組がおこなわれ、情報教育課程の教育情報コースというややこしいものだったのが、総合教育課程の情報教育コースというすっきりしたものになった。同時に定員は24から20に減った。これを機会にさらにカリキュラムの改善を行った。目立つのは、一年生からゼミ形式の授業を行う「基礎ゼミナール」の開設である。まだその評価を下すのは早すぎるが、少なくとも一年生を見ている限り、良い影響を及ぼしていると言っていいと思う。

 こうして現在に至るわけだが、コースのスタッフが充実するとともに、自分にも自らの研究に時間を割いていく余裕もできてきた。それと同時に大学院生との協力関係も緊密になり、ここ一、二年は石井成郎くんと浦崎久美子さんという強力な院生スタッフを迎えて、非常に充実した研究体制となった。長い目で見ると、自分の研究の方向性は、すでに野嶋先生にその研究の種をもらったときから、ゆっくりと教育実践研究をいかに科学的にやるかということに向いてきたわけだが、ここ数年では実験室実験というよりも、いかに授業を科学的にデザインし、その成果を客観的に測るのかというところに目が向けられている。その大きな原動力となったのは大学院生が私の授業を手伝ってくれるようになったことである。

 七年半を駆け足で見てきた。長い時間のように見えるが、振り返ればそれほどでもなく、自分たちがやってきたことを過大評価も過小評価もしないで見れば、一つのコースの体制を作り上げるという意味では堅実な仕事をしてきたと言えるであろう。教員養成系機関の縮小という大きな嵐が吹き荒れている現在ではあるが、それにもまれることなく、また情報化というある種のバブル現象の中にあっても、自分の立場を見失うことなく、良いコースを作り上げていきたいと思っている。