KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

岩谷宏『インターネットの大錯誤』

インターネットの大錯誤 (ちくま新書)

インターネットの大錯誤 (ちくま新書)

われわれ、ふつうの仕事人でありふつうの勉強人でありふつうの遊び人である人間が、それぞれのきわめて現実的具体的な仕事・勉強・遊び等のニーズに基づいて、インターネット・アプリケーションやそれを支えるさまざまなソフトウエア的仕組みを構想していく必要があります。今のコンピュータ技術やネットワーク技術のあり方の多くの部分、構想者・設計者・最終居住者不在のまま、大工さんたちがいきなり家づくりをやっているにも似た浅はかな無茶苦茶が罷り通っているんだわ。

 著者はコンピュータやネットワークの使い方について一番良いものを構想できるのはそれを使う当事者であり、ハードやソフトを商売として作っている人の下に当事者が置かれるのは間違っているとラジカルに主張する。一方で、線路工夫を「鉄道」の専門家として持ち上げることはないとパンチを繰り出し、もう一方で、普通の当事者よ立ち上がれと鼓舞する。過激な物言いだが、まっとうである。

 この本のハイライトは「インターネット=ホームページ」ではないとして、進化していくネットワークのイメージを構想している後半部分だ。今のWWWの仕組みはあまりにも単純かつ受け身的であり、子猫の引き取り手を探すことすらできない。テッド・ネルソンが「ハイパーテキスト」という新語で示したアイデアのほんの一部しか実現していない。そんなものにハイパーテキストという名前は使って欲しくないと怒る。

 元祖ハイパーテキストは、自らもどんどん生成していくようなものだ。学習者が自分の道具として使う情報通信システムであると同時に、システムが学習者から学んで自分を充実させていくものだ。

ハイパーテキスト、ないしコンピュータ・ネットワーク上の学習展開というものは、右にも述べたように、既存の教材や教程(カリキュラム)のような形で提供されるものではなく、学習者の資質や反応に応じて生成変化しリゾーム的に進化していくものなんだ。

 元祖ハイパーテキストを知るためには、テッド・ネルソンの「リテラリーマシン---ハイパーテキスト原論」(アスキー、1994)にあたらなくてはならない。この本は、奔放なイメージにあふれ、アイデア満載だが、インプリメンテーションについては読者に挑戦を突きつける。大学院生や研究者(含む私)はこういう本を真剣に読まなくてはいかんな。ほんとに。