KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

一日遅れの筋肉痛

 歳をとってくると運動をした翌日に筋肉痛がやって来るというのは本当だ。土曜日に草むしりをしたのだが、その日は身体を動かしたことで快調でも、その翌日に痛みが来る。これがもっと歳をとると、翌々日に痛みが延期されるらしい。そうなると自分の身体がなんで痛いのかわからなくなる。元気なお年寄りが無理をしてしまいがちなのは、この痛みによるフィードバックが遅れることによるのかもしれない。

 週末はたいてい草むしりをしているのだが、庭に雑草が生い茂っていないときはない。いつでもどこかに雑草である。庭---というよりは空き地といった方がいいか---が家に対して不釣り合いなくらい広いので、一区画をきれいにしている間に、別の部分に雑草が生い茂るということになる。しかも元々田圃だったところを造成するときにその土を一部残して畑にしたため、ちょっと放っておくとたちまち草原状態になる。田圃の土なので栄養があるのだろう。

 自分が都会育ちのためか、庭は広ければ広いほどよいと思い込んでいた。学んだことは、一人で世話のできる広さには限界があるということだ。広い面積の庭は一人では管理できない。タイに住んでいたとき、手入れされたきれいな庭が多いのに心和んだが、たいていは専門の庭師が管理していた。

 畑はあるが、役に立つものはあまり植えていない。それで雑草が生えることになる。ピーマン一株、シソ一株、長ネギが少々。自家用にするにはそれぞれ一株くらいで十分だ。農家がやるようにすると本当に食べきれないほどできる。今年はジャガイモは植えていなかったのだが、去年収穫し損ねた分が土の中に残っていて、それが種芋になって5株くらいのジャガイモがとれた。得した気分である。

 草をむしったり、畑仕事をしていると、もちろん身体は疲れるけれども、心はリラックスする。仕事が終わると満たされたという感じが残り、邪心がなくなってくる。物でもお金でも地位でも名誉でも、そうした物事に対する欲がなくなってくる。本当にどうでもいいという気分になる。

 まったく向上心のない生活というのはちょっと危険かもしれないけれど、向上心だけにひっぱられた人生は疲れすぎる。若いうちはそれでいいのだろうが、歳をとると疲れが一日遅れでやってくる。心の疲れは夢中になってやっているその時ではなくて、それが終わってしばらくしてからやってくる。