KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教育工学協会の大会に出る

 岐阜での教育工学協会の大会に参加してきた。自分が発表するというわけでもないので、何もなければ参加しかなったと思うが、自分がメンバーの一人になっている研究グループの打合会を兼ねていたので、出てきた。この大会は、1日目は学校で公開授業を見せ、2日目は研究発表という形式を取るところが特徴。研究発表は現場の教師が多いのが特徴で、件数はそれほど多くはないが、聴衆が多い。今回も1600人が参加という。しかし、その割には、研究発表のレベルはあまり高くないところが(←失礼)これからの課題だ。

 私はお祭り騒ぎの公開授業というものを見るのが嫌いなので1日目の夜の懇親会から参加(←ひどいね)。公開授業を見てきた他のメンバーからその様子を聞く。とにかく見学者が黒山の人だかりで大部分の人は満足に見ることができなかったようだ。それは想像できる。たぶん普通の教室でやったのだろうから、参加人数を考えれば間に合わないことはすぐに気がついていいはず。それはともかく、授業の後にその内容について意見を交わす「検討会」が開かれなかったことを彼は嘆いていた。公開授業を見っぱなしで終わりだとすれば、いったい何の意味があるのだろうか。授業を提供した教師はフィードバックを受ける権利があるはずだし、それを見た人は意見や助言を提供したいと思うはずだ。授業をやりっぱなし、見っぱなしでは、良くなる道理がない。しかも、研究大会なのだ。日本の学校と教師の未来は暗い。

 ひとつ、ひどいエピソード。理科の公開授業の中で、生徒たちが自分なりの実験データを取って来る。それが集まったところで先生の指示:

  • さあ、それじゃ、みんなのデータが正しいかどうかコンピュータで調べてみよう。

 ひどいね。ひどすぎる。こんな先生に習う生徒は被害者だね。いったいデータを取るということを何だと考えているのだろうか。それをあたかも絶対的な正解があって、答えあわせをするかのように扱っている。そうしたことが、子供に「科学をする」ということについて、どんなに誤ったイメージを与えているかについてすら想像できていないのだろう。しかも、公開授業をまかされる先生なのだから、けっして底辺の先生ではなく、むしろ優秀な方であるに違いないのだ。ああ日本の学校の未来は暗い。生徒は先生を選べないのだ、ということを教職に就く人は深く考えて欲しい。あなたのやるべき授業とはどんなものであるべきなのか。

 などということから始まって、研究グループのメンバー四人の教育についての激論は、下呂温泉に行ってもつづけられた。下呂に行ったのは、もちろん研究打ち合わせのためである。メンバーは全員が、教育を良くするために何かしたいという気持ちであった。