KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

経験に向き合う姿勢こそが人を変える

本当に経験しないと現実ではないのか。
本当に経験しさえすれば現実なのか。
このような疑問は、私にとっては「あんまり意味がない」です。常に私の中に、あなたの中に、誰かの中に、物語しか存在しないのだから。自分の物語を打ち崩す力と希望を持つ人は、常に自分を超える、自分にはとらえきれない「現実」に向き合う同志です。たとえ一生小さな村を出ることがないとしても、たとえ経験が極端に少ないとしても。いくら経験を積んでいても、小さな物語を世界と信じて人を裁く人などいくらでもいます。経験そのものは人を変えない。経験に向き合う姿勢こそが人を変える。

  • MIYU BOARD  虚構と現実 投稿者:miyu 投稿日:01月28日(木)22時51分20秒 より

「経験に向き合う姿勢」か。いい言葉だなあ。直接経験でも、あるいは小説や映画やwebページのような間接経験(mediated experience)でも、その経験に向き合う姿勢が大切。それを材料として何を学ぶか、あるいは自分を変容させるか、ということ。web日記を書いたり読んだりすることだって、それに向き合う姿勢が大事なのだ。それは、自慰とか自虐とかであったとしても何ら問題はないけれど、そうでない場合だって多いはず。

 一人一人が持っている自分の「物語(群)」を、認知心理学では「スキーマ(schema)」と呼ぶ。人はスキーマにしたがって外界から入ってくるすべてのものを理解するし、自分で考えたことを再整理する。人はどのようにしてスキーマを作り出し、またそれを変容させたり、あるいは一度作り出したスキーマに固執したりするのかということが、言ってしまえば認知心理学のゴールとなる最終問題だ。

 web日記なんてこんなもの、という自分の物語(スキーマ)を壊せない人は、死ぬまでそう思い込んでいる。僕が自虐的な行為(人ではなく行為)を好きになれないのは、そうすることで自分の物語を壊すどころか、ますます強固なものにしてしまうから。強力なスキーマをひとつだけ持っている人は、ひとつの決まったやり方でしか世界を認識できない。他人の話を聞けない。物事をもう一つ別の見方で見ることができない。それはちょっと見では「押し出しの強い信念の人」に見えるかもしれないが、ただそれだけのことだ。

 スキーマは人が物事を認識するプロセスに強力に働くから、物事をありのままに見ることは実は不可能だ。私たちはいつでも自分がすでに持っているスキーマに誘導されて物事を見る。たとえば血液型がB型の人は、こんな人、というスキーマをあらかじめ持っているから、B型の人のスキーマに合致した行動や性格をピックアップする。合致しないことも多いはずだが、それはスキーマ外のことなので「見逃してしまう」。万が一気がついたとしても「例外」とされる。このようにしてB型スキーマはますます強固なものになる。スキーマにあわないものは見逃されるので当然の帰結だ。我々は自分がそこで見たいと期待しているものしか見えないものだ。

 こう考えると、それぞれが大切に育ててきたスキーマを持っている大人が「柔軟に」「あるがままに」世界を見る、なんてことを言っても、それはほとんど不可能に近いことがわかる。それが楽にできるのは子供だけである。彼らはスキーマをあまりもっていないし、持っているスキーマも弱いものだ。だから、いつでもそれを作り替える準備がある。新しいスキーマを受け入れたり、古いスキーマを作り替えることを学習と呼ぶ。

 どんなにリアルな直接体験に接しても、その人が自分のスキーマに固執すれば、それはリアルではなくスキーマでフィルターされた結果だ。かといって、スキーマを捨て去れば我々は体験を知覚できない。タイ語を知らない人がタイ文字をみても何の観念も浮かばないということだ。とすれば、体験がリアルであるためには、それに関するスキーマを持ち、同時にそのスキーマを変容させる準備のあることが条件であると言えよう。それは日常的には「はっとする体験」としてとらえられる。「自分が今まで疑いもなく信じてきたものは何だったんだろう」と思うような瞬間だ。それは自分の古びたスキーマにくさびを打ち込んだ瞬間である。

 自分の持っているスキーマをいつでも変容させる準備ができている人には、それと分かる特徴がある。それは「傷つきやすさ」だ。何かと迷い、傷つき、悩み、内省する。それは自分のスキーマに確信が持てない結果だ。よりよいスキーマを求めて、学んでは捨てる。その行為は他人の目には傷つきやすさとして映る。心優しい人ならば思わず寄り添って抱きしめてあげたいと思わせるような。それは現実社会では効率の悪い生き方かもしれない。しかし、最もリアルに世界を知覚している人である。だけど、物事をリアルに見過ぎることは必ずしも幸福に結びつくわけではない。