KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

カスタマイズに無頓着なことの意味

 今回もまた子バイオ(VAIO C1をこう呼んでいる)を連れてきている。子バイオであれば、ベンチでちょっと開いてみようという気になる。まあ、あくまでもポーズというか、見せびらかしである。私は人の見ているところでは仕事もできないし、何かを書くということもできない。意外と神経質なのかもしれない。だから本当はモバイルパソコンなんてのは宝の持ち腐れなのだが、やはり出張に持っていくには軽いものがいい。

 普段使うのはマックなので、子バイオもマック風にしてしまおうか、とも思った。なんでもそういうアクセサリーはたくさんあるようだ。しかし、インストールするのが面倒なので、結局初期設定のウインドウズからほとんど変えないで使っている。どうやら私はそういう性癖があるようだ。つまり、パソコンとか自動車とか自分独自のカスタマイズをしないのである。ある種の人々はこうした自分用の道具を自分専用にカスタマイズすることに命をかける。たとえば私の研究室の修士の山崎君は、自分用のマックをカレイドスコープとやらで思いっきりカスタマイズしていて、他の人が使うのをためらわせるほど、MacOSの標準の外観からかけ離れている。

 自動車に関しても、ある種の人々は自分の自動車を自分用にカスタマイズする。エアロパーツをつけてみたり、ステッカーを貼ってみたり、女の人であればお気に入りのぬいぐるみを置いてみたりする。私はそういうことに無関心である。できれば、自動車には何も置きたくないし、何も貼りたくないし、何も付け加えたくない。なんでだろう。とにかくそうした自分の臭い付けをしたくないのだ。

 パソコンの場合だと、いろいろなところで仕事をする。自分の研究室、端末室、自宅、実家などである。だからその一台一台をできるだけ同じ環境にしておきたい。そもそも端末室のマシンはカスタマイズするのはまずい。というわけで、ノーマル仕様であるのが一番面倒がないのである。もし一台でも自分用にカスタマイズするとみんな同じカスタマイズでないと調子がくるうからだ。では、自動車の場合はどうだろう。何台もの車を乗るわけではない(妻の車は乗ることがある)。きっと自分の個性(のようなもの)をそういったモノで表現するのが気恥ずかしいのかもしれない。

 とにかくウインドウズを素のまま使っている。そうするとだんだんとウインドウズのデザインの思想というべきものがわかってくる。それは「にぎやか」の思想である。とにかくその場面でつかえそうなメニュー、アイテム、アイコンは表示しておかないと気がすまないのである。使えないものでもとりあえず表示しておく。画面はにぎやかなほうがいいというデザイン思想なのだ。逆にマックのデザイン思想は「簡素」である。関係のないものはできるだけ隠そうとする思想である。そうすることによって、今やっていることへの集中力を妨げないようにするという思想だ。

 どちらがいい、悪いというものでもない。慣れればどちらでもいい。現にこうしてウインドウズを使っているがだんだんと違和感はなくなってくる。うるさいアイコンも、タスクバーにずらりと並んだアイテムも、慣れれば愛嬌があるし、ワンクリックで呼び出せるところは便利でもある。マックでも最近はタスクの切り替えをウインドウズ風にパレットからできるようになった。しかし、マックを使っているときはそのオプションを使わず、いちいちメニューバーを引き出してやるところがわれながら不思議である。きっとパソコンを操作するときに、マック思想とウインドウズ思想を切り替えているに違いない。