KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

何かにハマる人を擁護する

「自分の持っているスキーマをいつでも変容させる準備ができている人」 の特徴として「傷つきやすさ」をあげておられるが、そうするとオカルト的な宗教にハマりやすいのも「自分の持っているスキーマをいつでも変容させる準備ができている人」ということになりはしませんかいな(早計か?そもそも宗教に関してスキーマが確立されている人というのは大人でさえあんまりいないだろうし)。で、もっと恐いのは、そういう人がいったんオカルト的宗教というスキーマを身に付けると 今度は至って頑なにそういうスキーマを捨てられないこと。「本当に経験しないと(も一つ:自分で考えないと)現実でないのか。」という問は、オカルトと向き合ったときに結構意味を持つと思うのだが。

  • 1月31日付 最近の私とその周り(FeedHimさん)

 そのとおり、オカルト宗教でも、ボランティア活動でも、とにかく何かにハマる人というのは、傷つきやすさを持っている。何かを信じて疑わない人は、こうしたことにはハマらないはずだ。

 いったんオカルト宗教にハマったひとがそこから抜け出せないのは、その宗教から抜け出さないようにその人の頭の中を固めるからだ。傷つきやすかった人の頭の中に、硬いスキーマを埋め込んでいくわけだ。今まで、へにゃへにゃで、すかすかだった頭の中に、硬くてでかくて壊れにくいものをぶち込まれるのはその人にとって快感だ。初めての体験ならなおさらうれしい。よく見れば精神的レイプなんだけどね。無理矢理信じ込まされたとしても、何かを信じるというのは楽だし、幸せだ。ヘッドギアをつけている人は、主観的にはものすごく幸福なんだと思う。逆に、周りの人みんなが信じているものを疑う方が、辛くて、多分ちょっと不幸。

 ハマらない人も、ハマっている人も同類だ。なぜならば、ハマらない人はすでに何かにハマっている確率が高いから。世間常識にハマっているとか、人間関係にハマっているとか、仕事にハマっているとか、立身出世にハマっているとか、金儲けにハマっているとか、愛という名の何か別のものにハマっているとか、釣りにハマっているとか、ギャンブルにハマっているとか、日記書きにハマっているとかね。

 だから、すでにハマってしまっている人も、絶対ハマらない人も、等しく、私には無縁な人たちである。別世界の人たちである。どうでもいい人たちである。どうにもならない人たちである。

 これから何かにハマる人を私は擁護する。なぜなら、何かにハマるということは、これまで何にもハマっていなかったことの証拠だから。そして全く新しい体験だから。そういう人を私は応援する。そうしていつの日か、満足してハマったものから抜け出してくることを期待する。たとえその人が一生ハマったままでも、私には何にもできない。だけど、また元のように、ハマっていない状態の「傷つきやすい」人になってくれたら、私はなんとなくうれしい。