KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

話すのは快感、聞くのは苦痛

 昨日の続きで、松田卓也さんの講演のメモから妄想を膨らませる。

 プレゼンをするには「話すのは快感、聞くのは苦痛」ということをまず認識しなければならない。おばさん同士の井戸端会議でも、おじさん同士の飲み会でも、ちょっと観察すればわかるが、みんな勢い良く話している一方で、誰もその話を聞いていない。他人の話をちゃんと聞くということは能力も注意も必要な仕事であり、普通の人にとっては苦痛なのだ。対して、話すということは一種排泄行為にも似ているから、楽しいのである。よって会話ではみんながしゃべり、誰も他人の言うことを聞いていないという現象が生まれる。

 以下そこからの妄想。

 「話すのは快感、聞くのは苦痛」とくれば、「読むのは快感、書くのは苦痛」と対峙させたくなる。実際、読むのは楽しい。活字中毒の人ならばなおさらである。気分をめいらせるようなニュースしか書いていない新聞をよくもまあ毎日読むものだ。とにかく読むのが好きなのだ。一方、書くのは苦痛である。なぜなら、自分の思ったことをそのままそのとおりに書けた試しがないからだ。自分の言いたいこととはちょっと違う。しかも他人が読めば誤解、曲解を生む危険性もいつもある。しんどいことだ。

 しかし、よく考えれば、読むのが快感なのは、実は快感を起こさせるような文章だけが市場に流通しているからなのだ。新聞でも雑誌でもマンガでも、読める文章、つまり売れる文章だけがフィルターされ流通される。だから読むのが快感なのだ。テレビのトークも同じ原理で、聞いて楽しいトーク、つまり売れるトークだけが流通される。だからテレビのトークを聞くのが楽しいのだ。

 では、「書くのは快感、読むのは苦痛」というケースはあるのだろうか。その前に「書くのも苦痛、読むのも苦痛」というのはある。成績をつけるために書かせたレポートがこのケースに当たる。学生も書くのが苦痛だし、レポートを読む先生も苦痛である。しかし、このようなケースはいかにも不自然なので早晩淘汰されるだろう。

 さて、「書くのは快感、読むのは苦痛」は実はWeb日記に良く当てはまる。本人は書くことに対して快感を感じている(私の場合はかなり「つらさ」が入り交じった快感ではあるが)。しかし、読む方は苦痛である。特に、怒りや愚痴ばかりのものは事情をきちんと書いてくれない限り、あまり読みたくない。ほのめかしの文章もイヤである。あとは想像してねというのは、読む方にとっては消化不良を起こす。あたかも自分が何もかも知っているようなふりをするのも気持ち悪い。考えていないのならそう白状してもらった方がいい。

 とはいえ、Web日記が「読むのが苦痛」であるのは、「Web日記を好き嫌い言わずに全部読め」と命令されたときに限る。通常はそんなことはなく、自分の好みのWeb日記を少数だけ選んで読むわけであるから、そのときは「書くのも快感、読むのも快感」という非常に幸福な状態が出現する。