KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

野田俊作「アドラー心理学」集中講義

 三日間の集中講義でアドラーギルドの野田俊作さんをお呼びしている。聴講学生は20数名。学外からは富山・金沢から女性3名と、富山県内のカウンセリング指導員の男性4名が参加。私も時間の許す限り聴講している。集中講義で呼んでくる先生にはすごい人が多い。わざわざ予算と時間を取って呼ぶのだから当然だ。しかし、私が大学生だったときもそうだったが、学生の時はそれがわからないのだよね。「猫に小判」状態だ。あのときに話をしてくれたのはすごい先生だったのだなと気がつくのは卒業してずいぶんたってからか、一生気づかないかもしれない。ま、それでもいいか。ともあれ、今日の話から、私のメモ。

 アドラー心理学は科学としてどんなパラダイムを採用しているか。

 すべての行動には理由がある。その理由として二つの種類のものを挙げることができる。原因論(causality)か、目的論(teleology)か、だ。アドラー心理学は目的論を採る。

 原因論とは物事の始まりを考える。ある特定の行動をしているのはなぜか。子どもの時のしつけのせいか、この人自身の性格のせいか、社会環境が悪いからなのか、など。我々が日常的に採用する考え方だ。たとえば「この子が不登校なのは、家庭の中で父親不在で母親が過保護だから」とか。原因には、大きく分けて三つの種類がある。内的なものか(性格など)、社会的なものか(環境など)、歴史的なもの(生育歴など)。

 原因論が臨床場面でしばしば無力なのは、内的原因にせよ、社会的原因にせよ、歴史的原因にせよ、第三者が介入しても動かせないものが多いからだ。性格は第三者は変えられないし、社会環境も大きくは変えにくい、生育歴は過去のことで変えようがない。また、要因が多すぎるので検証実験もできない。

 目的論は物事の終わりから考える。この子がこういう行動をしているのは何を目的としているからなのかを考える。たとえば、母親が炊事をしているときに限って子どもがまとわりついてじゃまをするという事象。これは子どもが注目してもらいたいという目的をもってしている行動だという「仮説」を立てる。そして、子どもが炊事の時にじゃましにきたら、いったん手を止めて子どもと遊んでみるという「実験」をする。そして、しばらくして子どもが満足して炊事のじゃまをしなくなるかという「検証」をする。もし改善しなければ別の目的に関する仮説を立てて検証すればいい。このように目的論の有利な点は、臨床場面において、「仮説→実験→検証」の形に持ち込みやすいことである。

 エンゲルスは科学を自然科学と文化科学(社会科学)の二つに分類した。自然科学は、法則定立性(nomothetic)を重視し、文化科学は個性記述性(idiographic)を重視する。法則定立性とは多数の事例から一般法則を導き出そうということである。一方、個性記述性とは、一般法則からどれほど離れているかを記述しようとする。

 アドラー心理学は個性記述性を重視する。それは臨床心理学が対象とするクライアントは平均値からかけ離れている人が多いからである。学級の中でも問題行動を起こす子どもはごくわずかの割合であって、大部分の生徒は平均値に収まる。もし問題行動を何とかしたいのであれば、必然的に個性記述的アプローチを採用することになる。

 要素論(elementalism)と全体論(holism)の対立がある。要素論とはある行動を起こしているパーツがあることを仮定する。たとえばある人が暴力をふるうのは、「性格」が暴力的だからとか、「酒」を飲んだからとか、そもそも「攻撃性」がその人の中にあるからだとか。つまりこの私の行動を決めるのは別のなんらかの要素であるという考え方。「攻撃性」などは心理学で「仮説構成体(construct)」と呼ばれる。しかし、こうした要素論の弱点は、使い勝手が悪いことだ。つまりこうした仮説構成体を仮定したとしても、それを制御したり予測したりすることができないからだ。もちろん「あとづけの説明」にはなる。しかし、予測には役立たない。

 アドラー心理学全体論を採る。全体論とは、全体の方向性を決めれば、それを構成している要素(たとえば心や体)がついてくるという考え方だ。つまり、要素が個人を動かすのではなく、個人が要素を動かすのだ。さらに言えば、「意識と無意識」も「理性と感情」も対立するのではなくて、個人の中では無矛盾的に協調し合っている。あたかも、右足と左足がまったく別の動きをしながら協調して歩くという行動をするように。

 アドラー心理学全体論を採るとはいいながら、それは個人内にとどめる。個人と世界(社会)は調和しているとは仮定しない。たとえば自分と世界とは一体というような絶対的秩序を仮定しない。あくまでも個人内だけに無矛盾を仮定する。

 以上まとめれば、アドラー心理学は、目的論を採り、個性記述的であり、全体論を採るということになる。

 科学の形を取るのは、それが次世代に伝えるのに効率がいいからである。宮大工の建築物は1500年もつ一方、普通の建築学を学んだ人の建築物は50年しかもたない。しかし、建築学という学問があるおかげで、「誰がやっても」50年もつ建物を建てることができる。名人芸のカウンセラーはいらない。それを学べば、誰がやってもそこそこの(60点の)カウンセリングができること。それをアドラー心理学は目指す。