KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

エピソードを物語化する信念システム

 野田さんの集中講義二日目。初日よりも受講生が増えている。しかも昨日はみんな教室の後ろの方に固まっていたのに、きょうは前の席が埋まっている。だんだん受講生が消えていく授業はあるが、増えていく授業は珍しい。私は午前中は女子短大の講義のため出られず、午後の途中から聴講した。そのメモ(途中から聞いたのでかなり私個人の解釈がはいっている)。

 記憶は話を聞くたびに変化する。だから、その人の記憶をインタビューして、それをデータ材料とするには慎重であるべきだ。

 普通は、過去の出来事があって(原因)、現在の出来事が起こっている(結果)と考える。しかし逆に、現在の出来事や状況があって(原因)、それが過去の記憶を作る(結果)と考えたほうが正しいのではないか。つまり、昔のエピソードを語る(レポートする)ときには、その人の現在の状況や考え方が自然に反映されたものになる。そのエピソードが楽しいものなのか、つらいものなのか、暗いものなのか、明るいものなのか、そうした意味づけや色づけは、あたかもロールシャッハテストをその人が解釈するように、その人の状況が投影されるのだ。

 エピソードそのものには意味はない。そのエピソードをどう物語化するかというときにその人の信念システムが反映される。たとえば次のような語り---

私が自動車のドアを開けたときに、外の子どもにドアをぶつけてしまった。私は何にもできなくて、私の親がその子に謝っているのをみていた。私は親にすまないなと思った。

 この人は「自分が何か失敗をして他人に迷惑をかけるのではないかと思って恐れている。しかし、同時に親や別の人が自分をかばってくれるはずだ」という信念を持っている。ドアで子どもをぶつけたのは「課題」のひとつである。解決目標は「親が謝ってくれる」ということ。そしてその手段として「すまないなという気持ち」を道具的に使うのである。

 個人個人が語る「物語」は、その人の「信念」を見事に反映している。