KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

自分の生きる価値は自分で作らなくてはならない

 野田さんの集中講義三日目で最終日。感動的な講義。そのメモ。

 臨床心理学は次のように第二のパラダイムに移った。第三のパラダイムはまだない。

  • 原因論 → 目的論
  • 要素論 → 全体論
  • 客観主義 → 認知主義
  • 精神内界論(intra-personal) → 対人関係論(inter-personal)

 第二のパラダイムは、物理学のように外の世界を説明するのではなく、個人の行動を説明するという範囲ならば充分に役に立つ。臨床家は、心の中で起こっているメカニズムには興味はない。なぜならば、心の中については、あらゆることがどうとでもいえるし、無限に言えるからだ。しかし、説明してみたところでそれらは証明も、検証もできない。つまり、科学的ではない。

 心の中で起こっていることを説明するのではなく、たとえば「あるコミュニケーションが病気を治すことに関係している」というような言説を問題にする。これは科学的である。なぜならば追試ができるからだ。

 たとえば催眠という一見神秘的な現象を取り上げれば、これは「随意的A(チョークを見つめる)をしてください。すると不随意的B(眠くなる)が起こるでしょう」という命題に表現することができる。こうすることによって十分科学として扱うことができる。催眠の場合は「不随意的B」が曖昧であればあるほどいい(左手が暖かくなるか、むずがゆくなるか、軽くなるか、重くなるかするでしょう)。なぜなら、それらどれかがひとつでも当たると、信念が崩れて行くからだ。

 信念を突き崩していく方法として、心理学は強力なテクニックを獲得した。それは倫理的な人々の手をはなれて、カルトや自己啓発セミナー、セールスにしばしば応用されている。

 ヤマギシでは、「怒り研鑽」の中で「何か腹の立ったことはありますか」と聞き出し、参加者がそれに答えると「そのどこが腹が立ったのですか?」という質問を無限に繰り返す。参加者が自発的に「もう腹は立ちません」というまで繰り返す。同様に「所有研鑽」では、「どうしてそれはあなたのものなのですか?」という質問を繰り返す。「誰のものでもありません」と参加者に言わせるまで続く。こうしたプログラムがマニュアル化されている。

 質問者がある意図を持って「あなたは本当に○○ですか?」という質問を繰り返すことによって洗脳は誰にでもできる。これは我々がふだん疑うことをしない文化的自明性を崩壊させるための強力なテクニックである。ある意図というのは、ヤマギシであれば「従順な人間を作る」ということであり、エンカウンター・グループであれば「感情を解放しよう」ということである。エンカウンターでは「あなたは本当にそんなことがしたいんですか?」という質問を繰り返すことによって、すでに獲得された「文化的自明性」を突き崩す。その結果、感情が爆発する。

 カルトであれ、自己啓発セミナーであれ、ハマった人が大人であれば、現実社会に連れ戻せば多くは元に戻る。なぜならば現実社会こそが最も強力な「洗脳システム」であるからだ。人間は、現実の対人関係、教育、職場、地域(ムラ)などによって常に洗脳され、制御されている。

 この意味で学校教育は「洗脳のサブシステム」である。しかし、いいのか、悪いのか、現代ではその学校洗脳システムの力が弱まっている。代わりに台頭してきたのが、テレビ、マスコミ、テレビゲームである。国家(ムラ)とその代理システムである教育が強力ではなくなってきたので、人々はカルトに取り込まれる可能性が増えてきたし、学校も崩壊するという現象が出てきたと言えよう。

 現代は「根底的な価値のない時代」である。しかし、ここでいう「価値がない」ということは「価値を知らない」ということであって「無価値である」ということではない。つまり、作りつけの価値はないのである。

 フランクルの「夜と霧」でこう書かれている。強制収容所で生き延びることができなかった人は、以前自分に与えられた価値(職業だとか地位だとか偉い人の妻だとか)にこだわった人だった。そうした外から与えられた価値を信じた人は、それが一切剥奪されたときに自分の生きる価値を失って、生き延びる力をなくしてしまった。一方、収容所を生き延びた人は、そこで自分がいったい何をしに生まれてきたということを考え直したのだ。

 いったい自分が何をするためにこの世に生まれてきたのか。それは自分が決めていくことなのだ。他の人に認めてもらっている人生を選んだり、社会に認めてもらうことを価値とする人も多い。しかし、それは巨大な洗脳システムの中で見ている幻想にすぎない。自分の人生の価値は、自分で作り出さなくてはならない。それは生きるということについての新しいパラダイムを獲得することだ。