KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

卒論と修論の発表会

 大学の一年の締めくくり、卒業論文修士論文の発表会があった。今年は発表件数が多かったため、朝九時から夕方五時までぎっしりと発表を聞いた。質疑の時間を含めて、卒論は一人10分、修論は一人20分だ。濃密な一日だった。

 僕の先輩がこんなふうにいっていたのを覚えている。「大学に行った人と行かなかった人の違いは、卒論を書いたか書かなかったかということにつきる。マスターに行った人と行かなかった人の違いは、修論を書いたか書かなかったかということにつきる」と。発表会はそのお披露目であり、しかし同時に厳しい口頭試問を兼ねている。

 数年前までは、「こいつの卒論(修論)は絶対に落とすべきだ」と確信して、その人の指導教官のところまで行って直談判したこともあるほどだった。しかし、今日の発表は、みな水準を超えていたし、それどころかすばらしい研究もたくさんあったように感じた。さて、自分が穏やかになったのか、実際に研究の質が高くなったのか。すくなくともプレゼンテーション技術は確実に高いものになっている。内容も「こりゃ、ひどい」というのはなかった。やはり指導が行き届いたものになってきたのだと思う。私を含めて中心となる指導教官は五人いる。自画自賛かもしれないけれど、みなきちんと指導しているということだ。

 卒論や修論を評価するときの私自身の絶対基準はこうだ。卒論では、学会発表をしていいと思われるレベルを期待する。修論では、査読付きの学会誌に投稿できるレベルを期待する。この基準にしたがえば、卒論・修論の半数近くはレベルをクリアしていたような気がする。まあレベルは超えていたとしても、実際に投稿原稿の形にすることが大切なんだが。

 昔は自分の指導した学生が発表しているときは心臓がドキドキしたものだった。しかし今はそんなことはなく、安心して発表を聞いていられるようになった。それだけ、彼女ら(指導学生は全員女性だった)が研究を自分のものとして着実に発表できていたということだろう。他の先生からの質問の返答に窮して、私が助け船を出す必要もなかった。すばらしい。

 夜は学部三年生も加えて、打ち上げパーティ。このときばかりはみな緊張から解放されて楽しい時間となる。私が、発表者を一人15秒くらいずつビデオに撮って、それを上映するのも今年で二年目になった。いい思い出である。