KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

競争しつつ共同するという構図

 大仰なタイトルをつけてしまったが、最近自分が凝りまくっているバドミントンからの洞察。冬はテニスができないのでバドミントンを週に三回ほどやっている。だんだん面白さがわかってきた。その面白さを構成する条件は何か。

 バドミントンでもテニスでも卓球でもいいのだが、こうしたゲームは球を相手のコートに打ち返すという行為の連続で成り立っている。だから「球を打つ」ことだけに注意がいきがちだが、それは見方が浅い。うまい人と打つと自分が打ちやすいところに球を出してくれるので簡単に打ち返せる。だから自分がうまくなったと錯覚してしまう。

 しかし、それが錯覚であることは、試合をしてみればすぐにわかる。真剣な試合では、相手の空いたコートに、つまり打ち返しにくい場所に球を送るのである。本当にスリリングな試合とは思いもかけない空き地に球を送ることだ。そしてそれを打ち返しに行く懸命なフットワークなのだ。これが観客をうならせるスリリングな試合である。相手の打ちやすいところに球を送っていたら、ひどく退屈な試合になってしまい、見るに値しない。

 球を打つ姿だけを見ていてはいけない。コート全体を見なくてはいけない。その人が立っている場所を見なくてはいけない。球が飛んでいる短い時間にその人がどこからどこへ移動したかというフットワークをみるべきだ。球を打つということは、実はそのフットワークの結果に過ぎない。

 これが競争しつつ共同するという構図である。相手の打ちにくいところに球を送ることによってお互いに競争し、その結果スリリングなゲームが構成される。それは全体としてみれば共同作業なのである。

 いったい私はこれをもって何を言いたいのだろうか。たとえばお互いに相手の打ちやすい球ばかりを送りあっていないか。それは、全く退屈な茶番であるにもかかわらず、打つ姿だけは美しい(打ちやすい球なのだから当然だ)ので、お互いにすごい、すばらしい、と言い合っているようなものではないか。そんな馴れ合いは醜悪だ。

 誰も気づいていないぽっかり空いたコートのワンコーナーを見つけ、そこに身体を運ぶフットワークを私は身につけたい。しかし、それとてそこに球を送る相手がいなければ実はゲームは成立しないのである。実に暗示的である。