KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

子供の「勉強離れ」への対抗手段

 朝日新聞(99.2.12)に「子供の「勉強離れ」---学ぶ意味問い直すとき」というコラムが載っている。私の99.1.19の日記で、高校生は勉強しなくなっているということを取り上げたが、それが中学校でも小学校でも目立つ現象になっているらしい。一握りの勉強をする子と、それよりもはるかに多い勉強しない子の二極分化しているということだ。

 コラムによると、なぜ勉強するのか、何の役に立つのかと問いかける子供が少なくないという。一昔前であれば、良い大学にはいるため、という一言で片づけられたこの質問に有効な答えが用意されていないのだ。実はこれは大学でもそうであって、なぜこの授業をとらなければならないのか、とるとどのようないいことがあるのかを説明することが授業の最初の時間に求められている。いや、もちろん「単位が出るよ」というのは切り札だが、それ以外の答えを用意しておかなければだめだ。

 学校教育制度そのものが弱くなっているのか。その一方で、学校外の教育サービスは元気であるようにも見える。私自身は教育システムや社会にある教育制度というものはマクロに見れば、人類が生き延びる戦略のひとつ(知識と知恵の流通)だと考えているので、これが力を失うことは人類全体が力を失うことになると思う。勉強する層としない層とに二極化するだけだとしても、しない層があやつられるままになればする層も努力をしなくなるだろうから全体としては力を失うことになる。

  • 体験学習は子供には人気だよ。だってあれは頭を使わなくていいからね。
  • アメリカではそれで子供の学力が落ちたとして、基礎基本に戻ろうとしている。

 こういう話も「勉強離れ」に対する反応のひとつかもしれない。

 受験のプレッシャーだけで子供に勉強をさせてきた時代が続いた。そのプレッシャーが弱まったとたん勉強することの根拠を用意できていないことに気がついた。実は私も受験勉強が嫌いだった。あのプレッシャーの元でやる勉強は楽しくなかった。大学に入ってからは本来勉強は楽しいものだということを確認した。しかし今度は論文を書かなければ就職がないという状況がやってきた。論文化のプレッシャーの元でやる研究は楽しくなかった。しかし、今はそのプレッシャーも少ない。プレッシャーをかけ続ける友人はいるが、それでもあまり気にしないでいられるようになった。そして研究は再び楽しいものになりつつある。

 勉強や研究が楽しいなどと正面切って言うと、作為的だと感じられる人もいるかもしれない。そのために言い方を変えれば、本当のところを知ることがうれしいのである。なんで本当のこと(より本当らしいこと)を知るだけでそんなにうれしいのかわからないが、私の場合実際そうなのだ。そういう人はけっこうたくさんいると思うのだが。そしてひょっとしたらこのあたりに勉強離れに対抗する手段へのヒントが隠されているかもしれないと。