KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

何かを証明するために生きる子供

 昨日(99.3.22)テレビでNHKスペシャル「理由なき不登校」を見た。「中学生日記」に出演する現役の中学生(不登校生を含む)を集めて、話を聞くという番組だった。ここに集められた中学生そのものがある程度スクリーニングされているのかもしれないが、本音らしきものがかいま見えて面白かった。

 一番印象的だったのは、登校する子も不登校する子も、自分の何かを証明したいのだということだ。「プライドを守りたい」ということばが何回か繰り返された。

 登校する子は、今の学校はあまり素敵なところではないけれども、それにもかかわらず自分ががんばること、努力すること、イヤなことに耐えることに意味があるのだと主張する。対して、不登校する子は、自分が好きなことをやることがなぜ悪いのかと反駁して、学校に行かなくてもちゃんとできるようになること、すばらしい人間になれるのだということを証明するのだという。

 何かを証明するために登校する/不登校するという意味において、この二つの正反対の行動はまったく同じようなものに見えた。

 ちょうど河上亮一『学校崩壊』(草思社)を読み終えたところ。学校の危機的な状態は、学校と先生、親、子供それぞれの単独の原因ではなく、社会全体の変化の反映であるというのがこの本の結論だ。しかし、そうだとしても、社会が変わっていたのに学校がその変化についていけなかったのが問題の原因だったというべきではないだろうか。学校が親やその子供を直接変えることができないとすれば、変化した親と変化した子供に合わせて学校自体が変わらなければいけなかったのではないか、と思うのだ。

 しかし、それにしても子供が変わったというのは本当なのだろうか。NHKの番組をみた僕は、子供は少しも変わっていないのではないかと思う。自分の何かを証明するために生きようとする子供たち。