KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記にタイトルをつけることの効果

 研究室のゼミ生にはWeb日記を書くようにと強く指導している。ほとんど押しつけている。でも書いてくれるゼミ生が多いのでうれしい。Web日記のスタイルは人によりさまざまだが、毎日の日記にタイトルをつけるかつけないかということは話題になる。またタイトルをつける場合は、本文を書く前にタイトルを考えるのか、書いた後に考えるのかなども面白い話題。

 タイトルをつけてもつけなくても日記は日記である。むしろタイトルをつけない日記の方が多数派である。日記猿人のリストをみても、1行コメントは書いても日記本体にはそれをタイトルとしてつけていない人が多い。しかし1行コメントそのものを書かない人は少数派である。読む方としては1行コメントは大切な情報源で、それによって新しい日記を開拓したりする。1行コメントは十分タイトルになるので、その意味では日記にはつけようと思えばタイトルはつけられるということだ。

 まったくタイトルのない日記だと、もくじを作るときに日付しか手がかりがないのであとで読み返したり、必要があって記録を調べようとするときに苦労するかもしれない(検索エンジンを積んでいない限り)。そう考えるとやはり何か手がかりになるものをタイトルとしてつけておいた方があとあと便利だろう。

 タイトルをつけて何かを書くことと、つけないまま書くことは違うと思う。タイトルをつけて書くと、文章に指向性がでるというか、何だかわからないけれどゴールに向かって進んでいくような気がする。その分、不自由に感じる。本当はこういうことが書きたいのではないのだけれど、タイトルによってテーマが決まってしまうために、方向が決まるのだ。その決まりつつある方向とゴールに逆らうことが苦しみでもあり、楽しみでもある。指向性に逆らうことに成功して、今までと違う視点が出せればすごく楽しい。そうなることはまれだけれど。

 またタイトルをつけるということは、どこで文章を終えるかということが決まることだとも言える。タイトルのない日記は、記述の終わりが日記の終わりであり、それは恣意的に決められる。つまりどこで終わってもいい。しかし、タイトルをつけるとここまで書かなくては終われないという終着点がかなり決まってくるように感じる。たとえばこの文章が、もしはじめの3段落だけで終わっていたら、かなり欲求不満がでるのではないだろうか。

 上の二点がタイトルをつけることが重荷になる原因だ。ひとつは方向性が決まってしまい、それに逆らえないと充足感がないこと(自分でありきたりだと感じてしまうこと)。もうひとつは終わり方が義務づけられることだ。こう考えると、初めのうちはタイトルをつけずに日記を書き、書き終えたらタイトルをつけるという方式の方がハードルが低いだろう。

 この文章は「日記にタイトルをつけること」という一般的なタイトルをとりあえずつけて書き始めた。ここまで書いてきてこのタイトルを「日記にタイトルをつけることの効果」に変えたくなっている。私の場合は、とりあえずのタイトルをつけて書き始め、途中でタイトルを変更することが多い。