KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

富山って…一生行かないよね

 「富山ってグアムよりも遠いかも」「一生行かないよね」というテレビCMが首都圏で流されたと新聞が伝えている(読売新聞富山版99.3.17)。こういうのをネガティブ広告と呼ぶのだそうだ。この広告は富山県外に向けたキャンペーンだから、当然県内では見ることができない。新聞の記述によると、三人のOLが寿司屋のカウンターで、富山県に引っ越した友人の話をしていて「富山? 知らなーい」「一生行かないよね」といいつつ、食べている寿司が実は富山県産のものだということをさりげなく伝えるという趣向。コピーに「知らなくても。富山県」と、はいる。

 東京に生まれて三十年間暮らしてきて思うのだが、もし富山に職を得ることがなかったら、やはり一生行かなかったかもしれないと思う。ただ、一生行かない可能性があるのは富山だけではなくて、現在までに行ったことのない県はたくさんある。青森、秋田、鳥取、島根、愛媛、高知、宮崎、長崎、佐賀あたりか。もしかすると名前すら思い出せない県もある。そういう意味では私にとって青森は、一年間住んだタイ王国東北部の町、ウドンターニーよりも遠いところである。

 富山が知られていないというのはその通りだと思う。大阪の人は「芦原温泉があるよね(それは福井!)」、「能登半島がいいよね(それは石川!)」などという。まあでも、それだけのことで、私が大阪のことをどれだけ知っているかというと同じようなものだ。逆に知られていないということは、それだけ話のネタがあるということだから、ありがたいともいえる。今度から、大勢に何か話をするときには富山県白地図をOHPにして持っていこうかと思う。

 考えてみれば、「知らなくても○○」ということは数知れずある。「知らなくても有酸素運動」とか、「知らなくても分散分析」とか、「知らなくてもトピックセンテンス」とか。知っていても知らないでいても我々の日常の行動が劇的に変わるわけではないもの。外見的にはその差はわずかなもので、ほとんど知覚することができない。しかし、「知らなくても○○」が「○○が働いていることを知っている」という状態に変わることで何かが変わる。少なくとも、みんなが「知らなくても○○」状態であるのはその集団の生き延びに対して危険であるといえよう。