KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

曾野綾子『中年以後』

中年以後 (知恵の森文庫)

中年以後 (知恵の森文庫)

青春はすばらしいものだ、と私は口先では迎合して時々そう言うこともあるのだが、よく考えてみると、内心では全くそう思っていない。私の感覚では、青春にはどこか「ものほしげ」なところがある。進路も決まらず、異性の存在には敏感にぴりぴりし、途方もなく思い上がったり、やたりに自信を失ったりしている。ところが我々は思い上がるほどの能力も、喪失するほどの自信や才能も、初めからもってはいないのだから、そういう意気込み方は何となく気恥ずかしいというものだ。

 著者は中年を三十代の半ばから五十代くらいとしている。私も四十歳を数えたから立派な中年だ。しかし、定職のない時期が三十歳近くまで長く続いたことと、教員という仕事柄若い人たちと接する時間が多いので、精神的には若いつもりなのである。「精神的に若い」というとなんだか良いもののように思われるが、実は青臭くて幼稚なだけである。

中年になって初めて人間はほんとうに欲しいものがわかる。自発的に何かをしようとする。若い時には、自発的に選ぶなどという高級なことはとてもできない。すべて時間稼ぎのモラトリアムである。何になりたいのか、何になれるのか、どちらもわからないから、取りあえずちょっとしてみたいと思うことを学んでおいて、それで食おう、という程度のいい加減な選択である。

 やはりこの歳になって自分がやりたいことがわかってきたと思う。それは大それたことではない。すごい研究をするとか、すばらしい論文を書くとかそういうことは違うのだということがわかってきた。それは基準が外に向いている。自発的に選ぶことができないから、世間の基準で選んでもらうしかないのだ。本当は、自分にとって「すごい」、自分にとって「すばらしい」ことをすることだと。日常のちょっとしたことを取り上げて、それをまるで宝物のように扱って、自分のサイズで解明してみるということだ。

自分がいなくては仕事が遅滞するだろう、と心配することは、若い時にはいいことだ、と私は思う。それくらいの責任感がなければ、いつまで経っても一人前になれない。しかしどんなに一人前になっても、これは真実ではないのである。

 さまざなことを切り分ける能力が中年の力である。自分の持っている時間をどう切り分けるか。自分の持っている能力をどう切り分けるか。自分の時間や能力が無限にあると思っていられるのは青春時代までだ。もはや、残された時間がどれくらいで、自分のできる仕事がどれくらいのものなのかを冷徹に計算できなくてはならない。その上で自分の時間の何割をかかわっている仕事に振り向け、何割を家族に振り向け、何割をその他のつきあいにふりむけるのかを決めなくてはいけない。そして、自分の周囲にある仕事のうち、どの仕事を別の人に任せ、どの仕事を自分が引き受けるかを決めなくてはならない。

 自分の周りに来た仕事のすべてに手を出し、引き受け、そしてそれが自分の有能さの証明であるにように思っている人がいる。しかし、それは幼稚な思考だ。自分の能力の見積もりができないから、そういうことが軽々しくできるのであって、引き受けた仕事を完成させることができずに、結局迷惑を被るのは周りの人々である。そして本人はといえば、たくさんの仕事を引き受けすぎたことを、言い訳に使うのである。仕事をたくさん引き受ける人に対して「人望がある」と言って世間の人はもてはやす傾向がある。誰も「自分の身の丈を知りなさい」などと忠告してくれる人などいない。だから中年になったらそれを自分で悟らなくてはならないのだ。

 この本を読むと、楽しくなる。それは中年以後の課題がたくさんあるということだ。その課題は、なにか大きな仕事をするとか、お金を貯めるとか、会社を大きくするとか、すばらしいパートナーを見つけるとかそういう直線的で、単純なものではない。物事の良い面と悪い面を同時に読みとったり、自分にぴったりした生き方を探したり、悲しみを受け入れる準備をしたり、正義よりも愛を重視したり、自分の価値判断を完成させたりする、といったもう一段複雑なことなのだ。