KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記は一日の生の幻影にすぎない

あるとき私は
一人の友人と国中を旅行した
彼は四六時中カメラをいじってばかりいる
ヒマラヤに行っても、彼はヒマラヤには興味がない
写真を撮ることのほうに夢中だ
ある満月の晩
われわれはタージマハールを見物していた
それを、彼ときたら写真を撮るのに夢中なのだ
もう数か月にもわたる同行の末のことで
私は彼に尋ねた
「いったい君は何をやっているんだい?
ここがタージマハールなんだよ
それなのに君はタージマハールを見ていない
始終写真のことばかり気にしている
うまく撮れているかどうか
光の具合は適当かどうか〓〓」
彼の言い草
「なんでタージマハールなんか気にする必要がある?
あとでぼくはこの旅全体のすごいアルバムをつくるつもりなんだ
そうしたら、ゆっくり落ち着いて見れるじゃないか」

 どんなに詳しく書こうとも、どんなに面白く書こうとも、どんなに客観的に書こうとも、またどんなに詩的に書こうとも、日記は一日の生の幻影にすぎないのだと思う。

 日記を書けば、それは残る。Webに書けばデジタルで残る。今の時代はデジタルで残すことがもっとも確実で存在感のあることになっている。そのことに気づいた人たちは日記をデジタルで残す。デジタルの日記は読まれることで、ミームとしての役割を果たす。

 日記を書くことで何かすごい「アルバム」が作れるのだろうか。もし死ぬまで書いたら「人生のすごいアルバム」のようなものが。しかし、私は日記を書くために生きているのではない。高々文字で綴った幻影のために自分の生を汚したくない、と思う。

 他人の日記を読む人も、それは幻影なのだということをときどき思い出すとよい。事実が書いてあろうが、虚構が書いてあろうが、それは幻影だ。書かれた事実の中に嘘があり、書かれた虚構の中に真実がある。それも幻影だからこそ。