KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

自分の性格を変える方法

 高岡法科大学というところで非常勤講師として心理学の授業を受け持っている。まだ実質的には二回しかやっていないのだが、まずとっかかりの話題としてリクエストの多かった「性格」を取り上げた。学生は一般的に心理テストが好きで、よくやりたがる。性格検査にはそれこそいろいろなものがあるから、その要求にも応えられる。

 性格の話の中で、「性格がなかなか変えられないのはなぜか」ということを話した。これは野田俊作さんの本『アドラー心理学トーキングセミナー』からの受け売りだが、

  • 人間はもともと保守的である
  • 自分の性格にはこれまでたっぷりと投資してきた
  • 急に性格を変えるとまわりの人が困惑する

 というようなことがあって自分の性格は変えにくいという。なるほど、もし明日から全く性格の違う自分になれるとしたら、今までやってきた自分はなんだったのかということになるだろう。自分の性格が嫌だなあと思いつつも、そんな自分にずっと投資続けてきたことも事実なのだ。たとえていえば、自然破壊を招くような公共事業を押し進めてきて、半分ほど完成したところで、「このままいくとまずいんじゃないの?」と思ってもそれまでの投資額が莫大なものになっているから、ここでやめるわけにはいかなくなってしまう。そんな感じか。

 性格を変えるためには、無理に性格を変えようと思わずに、いままでの投資をちゃらにして、今の性格であることをやめればいい、と本はいう。それは口で言うほど易しくはないだろう。いずれにしても、ずっと続けてきたことを、やめるのは勇気のいることだ。離婚するのに必要なエネルギーは、結婚するのに必要なエネルギーの十倍はかかる、ということからもわかる。

 私はいい加減な性格なので、自分の性格はどうでもいいと思っている。これは変な言い方だな。もっとラディカルにいえば「ひょっとして性格なんてないかもしれない」と考えている。あるとすれば、どういう行動をとるかという「確率」だけだと思う。

 たとえば、初対面の人に自分から話しかけることができるか、あるいは相手から声をかけられるまで黙っているかということがある。黙っている人に対して「内気」とか「内向的」とか「引っ込み思案」という性格ラベルを貼り付ける。しかし、自分が話すか黙るかは時と場合によるわけで、私だってハイテンションで話しまくるときもあれば、しとやかに黙りこくるときもある。それはその場と状況によって決まる。誰もが認める「内気」な人であっても一度の例外もなく、話しかけられまで黙っているということはないわけで、もしそんなことがあればそれは自分や他人が貼り付けた「内気」という性格ラベルに呪縛されているのだろう。

 「性格」というのは「どういう行動をとるかの確率事象」というのが面倒なので取りあえずつけた名前だ。この仮説構成体に呪縛された人には、「性格なんて本当はないんだよ」といってあげればいいと思う。

 ところで、授業への質問を学生全員に書いてもらっているのだが、ちょっと驚いたことは、「自分は今の性格を変えたいとは思っていない」という人がけっこういたことだ。これは、私が「きっとここにいる九割方の人は自分の性格が嫌で、それを変えたがっているだろう」という思いこみを持っていたことへの反応である。意外にも自分の性格を愛する人はけっこういるのだ。

 自分の性格が嫌でそれを変えたくて仕方のない人と、自分の性格が好きで変えようなどとは微塵も思わない人とは、全く正反対のように見える。しかし、自分の性格にせっせと投資し続けてきたということを心のよりどころとしている人という意味ではまったく同じ人たちである。