KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ヘボイ先生に当たったとき

——体調の方はどうだ?

少しずつだが良くなっている。昨日も点滴を受けてきた。「点滴を受けているときは眠っていてもいいんですよ」と教えてくれた人がいたので、安心して眠った。レントゲンの結果「気管支炎」という立派な病名をもらった。

——きちんと治さないから長引くんだ。

自分の体力を過信してはいけないね。これでバドミントンができなくなってからもう一ヶ月近くたってしまった。バドミントンのおかげで「脂肪→筋肉化」が進んでいたのだが、また元に戻ってしまった感じがするよ。お腹は正直だ。

——昨日書いた「理系」についての話は反響を呼んでいるぞ。

うん。もう少し考えてからまた書きたい。

社説で一言の「山科日記」で、総合学習についてコメントしている:

そんな先生達がいきなり裁量権を与えられたら、どうしたらよいかわからないのも当り前。まあ、先生だけでなく、普通のサラリーマンでも急に予算与えられてなんかしろといわれても困る人が多いだろうし、恥ずべきことでもない。

それはともかく、創意工夫した授業なんてみんなが思いつくのは無理だし、それぞれの思い付きでやった授業を相互に評価するなんてとても耐えられまい。だから、きっちりちゃんとしたマニュアルを作ってやるべきだと思う。ヘボイ先生に当たったとき、余りに差が大きいから。

——うーむ。「ヘボイ先生に当たったとき」か。本質的だな。

教育工学という学問の定義はいろいろあるが、私個人としては

  • どんなにヘボイ先生でもこの通りにやればそこそこの授業ができるような方法を開発し、提供する学問というのがいいんじゃないかと思って気に入っている。その意味では、今まさに教育工学の出番なんだが。

——それは、なんだか非学問的な定義だな。わかりやすすぎる。

まあプライベートな定義なので。

——そこそこの授業ができるような方法を教えて欲しいと思っている教師はたくさんいると思うよ。

実際には、総合学習のマニュアルや実例集の類の本は、たくさん出版されている。これに従えばそこそこの授業はできるはず。でも先生というのは不思議な心理が働くらしくて、よい実例をそのまま自分のクラスでやることには抵抗があるみたいだ。これはCAI(Computer Assisted Instruction, コンピュータに支援された教育)の研究で明らかになっていることだが、アメリカの教師はCAIソフトをそのまま授業で使うことに抵抗がない一方で、日本とドイツの教師は自分の手作りのソフトということにこだわるということだ。だから日本の教師はマニュアル本通りの授業はしたくないのかもしれない。

——なんとなく教師の気質が見えるような感じで面白い。

ましてや「みんなで創意工夫のある授業をしましょう」ということがスローガンとして掲げられる風土だ。「私はこのマニュアル通りの授業をしてみました。そうしたら、とってもうまくいきました」なんてことはおおっぴらに言えないんじゃないかな。

——君自身の授業はどうだ。

僕はマニュアル通りにやりたいのさ。たとえばアメリカ心理学会(APA)が出版している心理学授業の実例集なんかを読んで、そのままできそうなものをやったりする。たとえ本の通り同じようにやったとしても、教師や学生、時と場所によって変わってくる。マニュアル通りにやったとしてもはみ出てくるもの、それが個性だろう。最初から全部自分で工夫してみました、というのは独りよがりと紙一重だ。その人が天才なら別だが、普通の人ならば先達の工夫をまねしてみるのが王道だ。

ところで、宇多田ヒカルはいいね。

——今頃、何を言っている?

最近、ちゃんと聴いたんだ。あれは演歌だね。日本の演歌をコスモポリタン化したものだ。Automaticという曲なんか、まさにそう。