KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

公文式が「やっててよかった」時

——6/19の「大学往来」の中で雑誌に載った社会人入学の体験記が紹介されている:

カリキュラムの問題。各科目は「井戸をほっていて」専門にはくわしいが、「他(領域)とのつながりには興味がなさそう」で、関心のあるテーマを選択することはできるが、関心にそって体系的に選択することがなかなか難しい。また、各領域の関係について知ることはかなり困難だ。

技術的・専門的な科目ばかりで「高度な一般教養」科目がほとんどない。授業の年間計画が明らかでない科目がある。また、イソガシイ、あるいは明確な目標をもって入学した社会人学生の目には、時間をタイセツにしない、「学生、、、先生方も「時は金なり」を実行していない人種のよう」に映っている。オムニバス的な「総合講座」も2回ずつくらいでセンセイが交替されるため、「つかみどころがありません」ということだ。また、学生に連絡なく担当教員が変わってしまったりということもあったようだ。

——どうだい? 大学教員としては。

手厳しいが、当たっている。しかし、高度な一般教養科目というのはやるのに一番難しい授業だろうね。だからこそ、大人数の教員がリレー形式でやるしかない。一人ではカバーしきれないからだ。その結果、寄せ集め的で一貫性のない授業になってしまう。コーディネーター役の努力次第ではすばらしい授業にもなりうるが、多くはそうなっていない。

——君は教養科目は受け持っていないね。

言語表現を開講しているので免除されている。でも今年、非常勤の授業を受け持って私語の洗礼も受けたし、大規模クラスを受け持つことのおもしろさも感じたので、来年度から開講しようかなと考えている。科目は心理学ね。

——進んで自分の担当授業を増やすなんて珍しい教員だね。

そうだね。ところで、この社会人学生の提起している問題は割と重要だ。つまり、学生がその授業に何を望んでいるかということと、教員が何を教えたいかあるいは教えられるかということの両者がどうマッチしているかという問題だ。

公文式の教育をめぐって「あかねの日記」の6/17で:

私はやっててよかった公文式、と思っています。あそこは計算手続きに習熟して短時間でこなせることが目指すところ。計算手続きに時間がかかってしまうより、さっさとやれる方がいいに違いありません。

というのに対して、「毎日の記録」の6/18で:

苦悶式で、計算力がついたのは、確かにそうだと思う。学校の授業や日常生活でこなす計算の量なんて数が知れているから、計算の知識を身につけても、その実践の機会が限られている。その意味で、反復練習をする意味は大きい。これは、例えば、テニスで、ボレーの打ち方を知っているのと、ボレーが確実に打てるのが違う、 というのとも似ている。しかし、実際の試合ではどういう場面にボレーを打つのか、というイメージなしに、ボレーの練習ばかりしても、退屈するだけだと思うのだ。

と応じている。この二人の意見は全く矛盾なく成立すると思う。つまり学生が望むものと教師が与えるものがマッチすれば、望ましい教育が起こるし、マッチしなければ学生が不満を持つか、別の教育方法を探すということになる。

こんな表を考えてみた:


教師のねらい×学生のねらい


教師のねらい/できること・やりたいこと


教師のねらい外/できないこと・やらないこと


学生のねらい/やりたいこと・期待していること


A

望ましい教育


B

「不満・つまらない」


学生のねらい外/やりたくないこと・期待していないこと


C

「おせっかい」


D

正しい不実行

Aの欄では学生が期待していることと教師のできることが合致しており、望ましい教育が起こる確率が高い。計算力を付けたい子供が公文式に通うケースだ。

Bの欄では学生が期待していることを教師がやってくれない場合で、不満が起こる。計算に飽きた子供がまだ公文式に通っているようなケース。

Cの欄は、教師がやりたいことを学生が期待していない場合で、単なるおせっかいになる。間違えて「井戸掘り」科目を選択してしまった社会人学生のようなケースだな。

Dの欄は、学生が期待していないことを教師もやらないという場合で、「正しい不実行」と名付けた。これは目に付きにくいが重要だ。学生が期待していないことを、ちゃんとやらないということ。たとえば学生から「先生の超能力マジックはサムイのでやめて下さい」と言われたときに、教師はそれをやりたくてもちゃんとやめることだ(←?)。

——んー、なんだ、これは信号検出理論の焼き直しじゃないか。信号検出理論というのは、性能の悪いレーダーで敵機を探知するときのこんな表ね:



レーダーに感知あり


レーダーに感知なし


敵機あり


A 当たり!


B ミス!


敵機なし


C 虚報


D 正しい棄却


はは。ばれたか。まあいいじゃないか。なかなかすっきりした表だろう。A,B,C,Dのそれぞれの行為がどれほどの割合を占めるかということで、教師の性能曲線が描けるのだ。虚報やミスの多い先生よりは、当たりと正しい棄却が多い先生の方がいいわけだ。

——初等・中等教育段階では、学生のやりたいことが必ずしもはっきりしていないし、やりたくないことでも教師が押しつけなくてはいけないことも多いので、必ずしもこのモデルがうまく当てはまるわけではない。けど、まあ枠組みとしては面白いかな。

かもね。