KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

リサーチャーと臨床家

投稿者:岸見一郎 投稿日:07月09日(金)00時28分30秒

サラリーマンだった時があったという話、思い出しました。研究者としてではなく働く自分に、これが人生なんだ、と言い聞かせようとしてきましたが、とうとう我慢できず三月に退職しました。勤務先の院長は論文を書いて発表する医者のことをあの人はリサーチャーよ、とどちらかというとマイナスの意味づけをしていましたが(裏に自分は臨床に生きるという誇りがあったわけです、そのことを否定するつもりは毛頭ありませんが)、僕は「本当のところを知りたいと思ってする行為」に没頭したい、と考えました。お金はなくなりましたが今は満ち足りています。もう一度(一度ですめばいいが)チャンスに賭けてみようと思います。

「あの人はリサーチャーよ。私は臨床家」というセリフに触発される。

 よく似た対比に「現場と理論」というのもある。さらに探せば、「はい回る現場主義」とか「机上の空論」とか「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で…(よく知らないがテレビでやっていた)」。

 おそらく世の中の大部分の職業は臨床家なのだと言ってみたい。店員、営業マン、保険外交員、タクシードライバー、すべて臨床家である。臨床家とはできあがっている理論やシステムを現場で応用する人たちのことである。学校の教師は、この意味で完全に臨床家である。

 一方、リサーチャーとは、理論やシステムを作ったり、古い(間違った)理論やシステムを更新する人たちのことだ。しかし、多くの理論は現場で応用してみないと、つまり臨床してみないと、使い物になるかどうかはわからない。ここでリサーチャーと臨床家とのリンクができる。臨床家はリサーチャーから理論を仕入れ、実践し、その結果をリサーチャーにフィードバックする。リサーチャーはそれをデータとして理論の更新に励む。

 リサーチャーと臨床家との、数の割合や協力関係の度合いは、それぞれの領域で異なる。しかし、両者がはっきりと分離され、なおかつリンクも強くない場合は悪い結果が待っている。学校でシステム的な問題が起きた場合は、臨床家たちだけでは手に負えない。リサーチャーは解決策を提示しなければならない。しかし、日頃両者の仲がうまくいっていないと、臨床家はリサーチャーを信用できずに、問題解決が遅れる。

 おそらく解決策は、リサーチャーと臨床家とを兼ねる人々を増やしていくことだろう。つまり、リサーチャーは臨床をやり、臨床家は研究をすること。これが効果的だ。アメリカで「研究者としての教師(teacher as reseacher)」というトピックが取り上げられつつあるのも、こうしたことに気づいたからではないかと思う。リサーチャー兼臨床家という人を増やしていくことで、両陣営の断絶を回避し、フィードバックをより強くすることができる。これはどんな領域にも当てはまることだと言える。