KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

エスペラントを教える喜び

 前期の授業は終盤を迎えていて、たいていの科目は来週で終わる。その後は10月の上旬まで2ヶ月ちょっとの夏休み。今年の夏休みは、教養の心理学のためのテキストと、言語表現のためのCD-ROM教材を開発することを目標にしようと考えている。教材開発は休み期間中に集中的にやるのが一番効率がいい。

 今期のチャレンジのひとつは「エスペラント」という科目を開講することだった。数年前に「言語問題とエスペラント」という科目を開講したのだが、それ以来のことだ。前回は、語学としてのエスペラントではなく、世界の言語問題とその解決策としてのエスペラントというテーマのゼミナール形式だった。今回は、語学としてのエスペラントを前面に押し出した。もちろん言語問題については折に触れて取り上げた。

 きょうの時点で17人が出席していた。この人数は喜ぶべき数だ。とにかく期待以上の人数だ。大学にはまだまだ好奇心旺盛な学生がいるということだ。思い出してみれば、私も、自分が大学一年生の時は、ラテン語の授業を取っていた。それは、単位が必要とか、専門に関係があるとか、そういうことではなく、ただどんな言語なのかを知りたかったということが動機だった。もっとも大学2年になってエスペラントをやり始めてからは、ラテン語はやめてしまったけれど。

 エスペラントの授業が成立したということに、私はとても勇気づけられている。気の早い話だが、来年度も開講しようと考えている。そのときまでもっと良い教材を作りたいと考えている。できればインターネットで配布できるような教材にしたいと思っている。最近は、音声ファイルが扱えるなど、Web上で語学教材を作成する環境が整ってきている。できれば冒険的なWeb教材を作ってみたい。

 エスペラントの授業をやってみて、改めて感じたことは、自分はエスペラントを教えることが好きなんだ、ということだ。いろいろな授業を受け持っているが、エスペラントを教える時間が一番うれしい。自分以外の人が少しずつエスペラントを話せるようになっていくのを見るのが楽しい。それはミーム(文化的遺伝子)を広める喜びなのだろうか。

 自分一人がいくら一生懸命エスペラントを教えても、エスペランチストの数がそうそう増えるわけでもない。しかし、何が起こるかわからない。宇多田ヒカルエスペラントの歌を歌ってくれれば爆発的に広まるかもしれない。ちなみに坂本龍一エスペラントの歌のはいった曲を作曲していて、ずばり「Esperanto」というタイトルのアルバムを出している(その歌はエスペラントを知らない歌手が歌っているのでひどいものなんだが)。

 しかし、僕はなんでここまでエスペラントに入れ込んでいるんだろう。ひとつ思い当たるのは、「道具に仕込まれた思想」ということだ。つまり、エスペラントを学んだり、使ったりすることによって、ただのコトバ=道具として取り扱っているつもりでも、知らないうちに、「民族と言語」や「人類と言語」というような問題を考えざるをえなくなってくるということだ。これを道具に仕込まれた思想と名付けた。したがって、この思想に何らかの危険性を感じ取った支配者たちがエスペラントを迫害した時期があったということもなんとなく了解できる。

 折しも、野猿さんが掲示板で書いている:

今日の「アエラ」に、「日本人は中国人がキライ」という記事が載っていました。その中で、陳舜臣氏がこの日本人と中国人が嫌いあっている状況について、「今後はインターネットが普及するだろうから、それほど心配はしていない」というようなことを言っていました。私も全くその通りだと思います。「みんながweb日記を書くようになれば、世界が変わる」のです。

ただその前に立ちはだかるのが言葉の壁。今こそ、世界共通言語が必要とされる時代なのかもしれません。

 自分は、中国の人と何語で話そうとするだろうか。韓国の人と何語で話すだろうか。ベトナムの人と、タイの人と、マレーシアの人と、何語で話すだろうか。おそらく英語ではない。エスペラントで話したい。