KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

でも山登りは楽しい……努力を巡って

 「努力」を巡っての議論。がくもんにっき、新雑記、Island Life、どれもすごく面白い。思わず膝をたたく、なんて慣用句が浮かんでくる。こうした考え方が普通の考え方になれば、ずいぶん風通しのいい世の中になったりするんだが、と思う。

 僕が足をつっこんでいる(アメリカ流)教育工学という研究領域は、行動主義心理学(現・行動分析学)を源流にもっているし、成果主義を標榜している。はからずも、「新雑記」で出てきた「意図主義」(どういう結果になったかよりも、どういうつもりであったかを重視する)や、日本の教育界をおおう「努力主義」(努力が大切、結果は二の次)については、それがこの国では常識であり、良識にまでなってしまっているので、時々ひどく違和感を感じる。

 たとえば、「新雑記」の次のような問題提起:

たとえば、「努力しないのに(あるいは努力しているようには見えないのに)どんどん成果が上がる人」と「成果は上がってないけど、一生懸命頑張っている人」では、どちらに好感を持ちますか?

たとえば、一本足打法誕生秘話でひとびとを感動させた(?)王貞治と「オレ流」を通そうとした落合博満とでは、どちらに好感を持ちますか?

 好感はともかく、「一生懸命がんばっているのに成果が上がらない」という状況は教育工学から見れば「下の下」であり、教師の責任問題になる。でも、日本の教師は「とにかく、一生懸命がんばっている子」が大好きなんだなあ、本当に。何人もの現役教師から、そう聞いたもの。いや、もちろん僕もがんばっている学生は好きだよ。さぼっている学生よりもずっと好き。でも、一生懸命ながんばりを成果に結びつけてやることが教師の仕事なんだし、それ以外の仕事は実はあまりない。

 もう一歩引いて考えてみると、教師という集団そのものが、かなりの割合で「努力の人」たちなんだろう。教師になるのも大変な忍耐と努力が必要だし、教師になってからも過酷な労働条件だとメディアは伝えている。だから自然に、努力する子供を好きになってしまうのだ。それは自分自身のあり方を完全に肯定するものだから。もし、落合博満的子供を認めちゃうと、認知的不協和に悩まされることになるから。でも、落合博満的子供はオレ流で道を切り開いていくので、教師から冷たくされてもあまり問題はなかったりするんだけどね。

 「努力なんてコトバの似合わない、お気楽、すいすい教師、でも成果は上がるんだなあ」みたいな先生がもう少し増えてくると、変わってくるのかもしれない。教育学部はそういう教師を養成せよ。

 僕が初めてアメリカの大学を訪問したときに見た教員は、みんなワーカホリックみたいにめちゃくちゃ仕事していたな。でもあれには「努力」というコトバは全然似合わない。なぜかというと、妙に楽しそうなんだもん。あんなに楽しそうなのは、眉間にしわを寄せる「努力」ではない。そうじゃなくて「でも山登りは楽しい」(Island Life)ってやつなんだろう。