KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

芸術としての日記書き

投稿者:nagura 投稿日:07月23日(金)00時30分37秒

ぼくも先日、友人だけでやってるクローズドの掲示板に以下のようなカキコミをしたばかりでした。(これをシンクロニシティというような野暮は言いませんが。…だったら初めから言うなって)

ぼくのHPの日記、いよいよ飽きてきた。内容もマンネリ。書いててもあんまり楽しくない。「なんでこんなモン書いてるんだろう?」と思ったり。でもアクセスは増え続けている。あんなツマラナイものがなぜ読まれるのか不思議だ。でもアクセスがあると、なんとなくやめにくくて、惰性で毎日書いてしまう。なんだかなー。はじめは結構楽しんで書いてたんだけど。

そしたら、友人から次のようなレスポンスが。

日記を書くという行為は飽きてきたらすぐにやめてしまうものである。普通の人は。それが、アクセスがあるからやめられない、というのだから面白い。マンネリ解消したいなら、メチャクチャなこと書いて荒らせばどうか?読者がどう反応するかは知らないが。まぁ、好きにすればよかろう。

でもその後、書きたいことが出てきて、うわーっと書いてしまったり。「書くのが楽しいかどうか」には周期というか波があるのかもしれません。

でもなんか、ウェブ日記って習慣性がありますね。良くも悪くも。

 正直言って、僕は書いているときに「楽しい」と思ったことはほとんどない。それどころか、パソコンの前に座るときには、「なんだか嫌だなあ、これを書きたい、ということがないなあ」なんて思いながらいやいや座っていたりする。誰も、日記を書くことを義務づけているわけでもないし、それが自分の仕事でもないんだけれどね。

 それで他の人のWeb日記を読んだり、雑誌をぱらぱらめくったり、エディタにぽつぽつと思い浮かぶ単語を打ち込んでみたりしながら、書くエンジンを始動させる。あ、他の人の日記を読むのは楽しいね。もちろん興味のない話題の時もあるんだけれど、それは読みとばせば数秒もかからないことだから、まったく問題はない(*)。

(*) わざわざ「つまらない」と言ってくる人は、つまらない部分も律儀に読んでいるんだろうか。僕は、それは時間の無駄だと思う。あ、自分が時間を損したと思うから、それを恨んで「つまらない」と言ってくるのか。でも、そんなことをして、さらに時間を無駄にするよりも、つまらないと思われる部分をとばし読みして、気にしない技能を身につけた方がいいと思うよ。そうしたら真剣に読むものはすべて面白いものになるはず。

 そんなことをしながら、自分の日記を書き始める。でも、その時点では「楽しい」という感じはない。さらに、書いている途中は、書くことだけに集中しているから(そうしなければ書けないよね)、楽しいとか面白いとかは感じる余裕がない。

 楽しいと思うのは、1日分の日記を書き上げて、Webページに載せたときだね。それだけで自分の満足度は95%くらいまで満たされる。つまり、それだけでほとんど満足なんだ。その後のこと、たとえば、たくさんの人に読んでもらえること、ときどき何通かの反響をもらえること、日記猿人の得票数が増えること、カウンターの数字が伸びること、こうしたことはすべて副産物だ。まあ、副産物とはいえ、それが自分の人生にとって微妙な味付けをしてくれるので、その役割はけっして小さくはない。とはいえ、満足感や喜びは、自分が書き上げた行為それ自体にそのほとんどを負っている。

 それで、これはいったい何なのかということなんだけど。これはひとつの「芸術」なのではないかと思い当たった。そんな大げさな芸術ではない。ちょっと長いけど次の引用でいうような芸術なのではないか、と(マンガからセリフだけを抜き出しているのでわかりにくかもしれないけど):

スコット・マクラウド「マンガ学」(美術出版社, 1998)

自己表現の度合いが大きい職業というものはある。《生存》…つまり生活費を稼ぐことと、創造欲を満たすことがうまく一致しているケースだ。

行動の中にも、《芸術》の割合がより大きい行動があると言っていいだろう。

小さな決断の積み重ねからなる生活の中には生き残る知恵も、そうでない何かもあるわけで、その度合いもいろいろだ。

でもさ、こういう言い方をする人って多いよね。「こんなもん芸術じゃねえ!」 芸術であるか/でないか…答えはそんな単純なものじゃないと思うんだけどね。

何にも表現しない職業なんてめったにないし…

…成功を求めない芸術家だって少ない。成功を求めるのは生存本能さ。

もちろん多くの芸術家たちは金銭的な成功よりももっと気高い理想を追求している。たとえ成功を望んでいても、そのために魂を売ったりしないものだ。

そう、たとえば純粋な芸術家の宣言とはこんな具合だ……「私の作品は金持ちのインテリアではない!」「芸術とは金儲けではない! モテたいからでもない! 名誉も権力もいらない! 私はただ芸術のために描くのだ!」

つまりは「私のやっていることは、実用的に見て、全くなんの役にもたたない…」

「…でも、大切なんだよ!」ってね。

「日記を書くことは、実用的に見て、全くなんの役にも立たない……でも、大切なんだよ!」ってね。そう思う。ただ生存するためでもなく、生殖するためでもない、それ以外の時間を日記を書くことに使った結果を、芸術と呼んでもいいんじゃないか。もちろん、はがき絵でも、三味線でも、ガーデニングでも、日記と同じように芸術と呼んでいいわけなんだけど。