KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

国立大学の独立行政法人化

 日本に99校ある国立大学が独立行政法人になることは避けられないことになってきたといわれている。先日、学内で開かれたこの話題についての懇談会に出席したので、ここにその話を書こうとするわけなんだが、政治音痴の私はこういう話題が苦手である。苦手であるというだけで、この話題に無関心なのではない。もし無関心だとしたら、全学に呼びかけられても高々30-40人くらいしか集まらなかったこの懇談会に出るわけがない。この人数は全学教員の数パーセントに過ぎない。

 おそらく私は「政治」が嫌いなのだ。それはとられた政策が正しかったか、誤っていたかがきちんと実証できないというその性質によるのだろう(たとえば二千円札が発行されるとして、その後そのことが良かったのか悪かったのか確かめられるのだろうか)。つまり政治の世界では、実験群と統制群という実験計画法がやりにくい。さらに、政策実施時点に戻ってやり直すこともできない。こうした制約の下にできるだけ客観的考察を加えるのが政治学や歴史学なのかもしれないけれど。

 もし私が政策をすべて決められる権限を持っていたなら、ランダムサンプリングされた県のそれぞれで、独立行政法人実施か(実験群)、旧来の国立大学制(統制群)を実施してその効果をみる。それで、いい方をやればいいじゃないか。しかし、政治の世界はよくわからない。たとえば、40人学級と20人学級での生徒の学習到達度や満足度というデータがでているんだから(もちろん少人数学級の方がいい)、それをできる限り実施すればいいだけのことじゃないか、と思う。しかし、政治の世界ではそれが容易なことではないようだ。こういうすっきりしないところが私が政治が苦手だという理由のようだ。

 本題についてあまり書きたくないので前置きが長くなってしまった。実はよくわからないのである。だから以下に書くことは、個人的な感想である。事実誤認もあるかもしれない。

 国立大学が独立行政法人独法)になると、大臣がその中期目標の指定をしたり、学長が教授だけで決められるなど、大学の自治の侵害であるという点が問題であるようだ。さらに、独法化することによって公務員の定員削減が避けられるというような見方もあるが、それは全く甘いということ。実際、独法になるまでの期間は定員削減の対象であるし、独法になってからも一層の効率化が求められる(そももそ独法にする理由がそれなのだから)ために人員の削減は続くであろうと。

 要するにこれは国立大学のリストラである。リストラして競争原理と経営努力を求めるということなのだろう。数年前から文部省のお達しで「自己評価」というものが行われてきたが、それが何の効果もなかったということが明らかになった。自分で自分を改革するのは個人ですら困難なのだから、大学という巨大な組織が容易に変わるはずがないのである。そうして、リストラは外からやってきた。

 書いていて我ながら歯切れが悪いのは、独法化することが(自分のことはさておき)国立大学にとって、ひいては学生にとっていいことなのか悪いことなのか決めかねるからである。効率化というからには人件費の削減は避けられないだろうからサービスの低下が起こるかもしれない。しかし、ここで私学は厳しい状況のなかでちゃんとやっているじゃないかという反論があがる。実際、国立大学独法化については私学からの圧力は相当大きい。

 ただひとつ確実なのは、独法化されてもされなくても、大学や教員の「評価」がいかに公正に透明に行われるかどうかが鍵になるということだ。国立大の大学教員はこれまで第三者からの評価を受けたことがなかった。自分の研究に対しても、教育に対しても。「自己評価」はここでいう評価ではないと断言できる。他者からの評価を受けない人や組織は腐る。それはどんなに立派な人であってもそうだ。ましてや、国立大学の教員全員が立派な人ではないことは明らかなのだから。