KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

英語で書いて恩返し

 「毎日の記録」の2/2分で、論文を何語で書くかという話題についてこんなくだり:

英語論文を読んで勉強したのだから、成果は英語で書いて 恩返ししなきゃ、というのが、私の基本スタンスです。

 これを読んで、「うーむ、なるほどね」と思った。今までそんなことを考えたことがなかった。もともと英語でペーパーを書いたことも1、2度しかない。それも渋々書いたわけで、特別な事情---つまり英語で書かなければならないという指示や規定---がなければ書かなかった。日本語の論文でも査読がかかっているものはたいてい英文での要約が求められる。それですらしんどい。英文要約くらい出版社の方で用意してくれてもいいんじゃないか。高い会費を払っているのだから、専任の翻訳スタッフを雇うくらいできそうなものだ(全訳ではなくて要約だけなのだから)。実際、Reading Research Quarterlyというジャーナルは論文はすべて英語だが、フランス語、スペイン語、そして日本語の要約がついている。これがどんなにありがたいことか。実を言うと、日本語要約はあまりこなれていないので読みにくいのだが(ひょっとして機械翻訳?)、それでもないよりは百倍もいい。

 私の専門領域(教育工学)も、まず英語の文献調査をしなければ研究が始まらない。なによりも文献の量が違うし、そのために質が違う。文献を読めば、勉強になり参考になる。でも、英語の文献で自分の研究が進んだのだから、英語で書いて恩返しという考えには至らなかった。なぜか。まず、第1に、英語の文献を苦労して読むのも自分のコストでやっているということ、また英語で論文を書く場合でも当然自分のコストでやっているということ。なのになぜ恩返しをしなくてはならないのだろうか。その論文が英語で書かれたのは、たまたま著者の母語が英語だったり、そのジャーナルが英語論文だけを受け付けるものだったからだろう。なにも私のために英語で書いてくれたわけではない。私にとっては日本語で書いてくれることが一番うれしいことなのだ。もし大量の英語論文が日本語で読めたなら、そのときこそ私は恩返しをするだろう。日本語で読めるようにしてくれた人たちに。

 第2に、恩返しをするとすればいったい誰に恩返しをしているのだろうか。もちろん「英語」というものに対してではない。そうではなく、自分に有益な情報を与えてくれた論文に対してであり、それを書いた研究者に対してだ。もしその研究者がたまたまロシア人であって、彼はひどく苦労して英語の論文を書いたのだとしたら、やはりこちらは英語で書くことが恩返しになるのかな。どの言語を使うか、あるいは使わざるを得ないかという社会的な構造を考えるとそう単純な話ではない。もちろん自分の指導教授が英語を母語としているならば、その人に対して「英語で書いて恩返し」という感覚はわかる。

 第3に、もし恩返しというような事柄を持ち出してくるならば、自分を育ててくれた研究コミュニティに対しても、同様のことをしてもいいのではないか。その研究コミュニティで英語が流通しているのなら、これもまたわかるのだが、そうでない場合はどうなのか。D. シュワーブ・B. シュワーブ・高橋雅治『初めての心理学英語論文』(北大路書房、1998)という本の中にこんなことが書かれている:

必ずしもすべての論文が欧文で出版される必要はない・・・日本で出版するよりも欧米で出版することの方が"より良い"などと決めてかかってはならない。・・・日本の心理学の最高レベルの研究が大部分の日本人心理学者によって読まれることのない雑誌に発表されても、それは日本の心理学にとっては役に立たないからである。・・・英語で書く理由がない限りは英語で書かないことを真剣に考えて欲しい。

 現実に英語で書かなくてはならない状況もあって、実際に英語で書き、その中で研究が進んでいるわけだけれども、それを「恩返し」というコトバで自分自身を納得させてしまうようなことがもしあるとしたら、ちょっと倒錯的なのかもしれないと思ったりした。「私の業界では英語が標準ですので、その中のプロの研究者としては英語で書くのは当然なわけです」という方がいくぶんいさぎよい。