KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

童門冬二『わたしの「超」時間活用法』

 口述で日記を書けたらいいだろうなと思う。日記のタイピング作業に毎日1時間余りを費やしているのを、できれば縮めたいのだ。しかし、口述筆記は一度試してみればわかるが、初めからすいすいできるものではない。テープレコーダを前にして、コトバが出てこない。メモでも見なければ出てこない。たとえ出てきたとしても、そのまま文字に起こして読めるようなものではない。下書きくらいは欲しい。しかし、下書きをするくらいなら、最初からタイプした方が速いし、楽なのだ。

 口述筆記で文章を書く作家は多くはないと思うが、確かにいる。童門冬二「わたしの「超」時間活用法」(中公文庫、2000、571円)は口述筆記によって書かれている。そしてその中でどのように口述筆記するのかを説明している。そのポリシーは「言文一致」であり、「講演の記録がそのまま本になる」ような文章が良いということだ。つまり、耳で聞いてすらすらと理解できないような話は、書いてもだめなのだという。実際この本を読んでいると、著者が目の前にいてその内容をしゃべっているような感覚がしてくる。それは文面にも現れていて、次に一例を示すように見事な改行文体なのである:

 妙な方向に話がそれてしまったが、こういう事を書いたのは、つまり、
「同時進行しているテーマについて、ゴチャゴチャになったり、混乱する事はないのか?」
 という問い掛けに対し、
「混乱しない」
 と答え、
「なぜ混乱しないか」
 の理由をここに並べたのだ。

 この文章は改行しなくてもまったく問題ないのである。しかし、改行することによって話し言葉の生き生きした感じを出していると言える。その分、紙面を余計に食っているということはある。冗長な感じもする。しかし、読みやすい(聞きやすいというべきか)。改行箇所を話し手の「息継ぎ」だと考えればいい。

 またこの本では全体として繰り返しが多い。同じことを繰り返すのは書き言葉では御法度だ。どうしても繰り返したいときは、少し言い方を変えよと言われる。しかし、口述ではどうしても繰り返したくなるし、それは話の流れとして必要な繰り返しであることが多い。もともと耳から聞いた話は一度では理解できないことが多い。だから繰り返しの必要性がある。口述筆記ではその性格を引きずるわけだ。

 Web日記でもときどき「これは口述しているのではないか」と思わせるようなものがある。

 たとえば「いまどきのはは」はかなり言文一致体に近い。分量が多いのはそのためだろうし、冗長なのも話し言葉に近いからだ。おそらく話すのと同じスピードでタイプしているのではないだろうか。一方、「rozannaの過剰な人々」は典型的な改行文体であり、しかも会話部分が多い。しかし、書き言葉である。冗長さが少なく、繰り返しも少ない。