KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ディスプレイと鬱傾向

 スポーツは瞑想になりうる。『コンピュータが子どもの心を変える』の中に出てきたが、スポーツはさまざまな意味で身体を自然な状態に戻す。一方で、テレビにしてもコンピュータにしてもディスプレイを見る時間の長さと鬱傾向とは相関関係にある、とも書かれていた。もちろんディスプレイを見ることが鬱傾向の原因になっているとは限らない。ディスプレイを長時間見ることと、鬱傾向であることの両方の引き金となっているような原因があるのだろう。

 それにしても、「ディスプレイと鬱」という組み合わせを聞いて、どきっとした。個人的な経験からもそれが当たっていると直観的に思ったからだ。一日中コンピュータディスプレイに向かっていたような日は、たとえ仕事が終わっても頭の中はどんよりして、すっきりしない。逆に、暇な休日に一日中テレビ番組を見たりすると、同じように心の疲れが残るのだ。もちろん面白い番組を見れば、見ているその時は面白いし楽しい。しかし、番組が終わった瞬間、現実が色あせて見える。私が一つの番組を最後まで見たくないのはそれが理由なのだろう。面白すぎるものを見てしまうと、あとで倦怠感や空しさ、もの悲しさが残る。面白くなりかけたところで見るのをやめにしたい、と思っているし、実際そうすることが多い。面白すぎるものには何か毒がある。

 思いつきで次のような表を作ってみる。コミュニケーションを「コトバを使う/使わない」と「対面/スクリーン媒介」で4分割してみたものだ。



対面


スクリーン媒介


コトバを使う


おしゃべり、会話


メール、チャット、掲示板、ホームページ


コトバを使わない(少ない)


いっしょにやるスポーツ


非言語オンラインゲーム(?)

 これを眺めると、スクリーン媒介のコミュニケーションはコトバの比重が高い。それは、技術的にも歴史的にも当たり前のことだ。しかし、コトバに対する比重が高ければ高いほど、コトバに対して人をシニカルにしてしまうようなところがある。さまざまなテキストを大量にしかも速く読み過ぎると、だんだんとシニカルになってくるようなところがあるのではないか。読めば読むほど気が晴れない。それどころか気が重くなってくる。

 未開拓の分野は4番目のセル「コトバを使わないスクリーン媒介のコミュニケーション」だ。たとえて言えば、文字を使わないポストペットのようなものか。スポーツの意味は、コトバで構成された世界は世界の一部分にすぎないのだということをわからせてくれることだ。それが瞑想の入り口になる。良い非言語オンラインゲームができたら、スクリーン媒介のコミュニケーションに新しい入り口を開けるものではないか。