KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

他人のプログラムをいじることと添削指導

 仕事で他人の書いたプログラムをいじっているわけだが、これはなんとも妙な作業だ。更新しなければならない箇所はそれほど多くはない。しかし、更新するためには、そのプログラムがいったいどういう順序でどういう処理をしているのかということを、プログラムを読んで理解しなくてはならない。ドキュメントやプログラム中のコメントは、あるにはあるが、最終的にはプログラムコードそのものが命である。時々、コメントとは違うことをプログラムがやっていて、それが致命的なエラーにもなる。プログラムそのものがドキュメントだ(というのを偉い人が言っていたのではないか)。

 プログラム更新が一年に一度のことであれば、そのプログラムを読んで内容を思い出すのに時間がかかる。実際、最初の1日は思い出すのに費やされた。2日目にぼちぼちコードを書き直し、3日目にやっとデータを入れてテストができる。という具合に遅々としてはかどらない。他人の書いたプログラムをいじることができるようになるためには、その内容をまず自分のものにしなくてはならない。そうでなければ恐くていじることはできない。

 などということをぶつくさと考えていた。これは割に合わない仕事だ、と。

 話は、他人の書いた文章の添削指導にジャンプする。作文の指導で一番大変なのは、添削指導である。添削とはいっても、誤字脱字の指摘や、文体の調整は楽である。つまり、校正記号で表現できるような添削は楽だ。本当に大変なのは、文章の展開というか、かなり中身にまで踏み込んだ場合の添削だ。その人が文章でいいたいことをまず自分のものにしてからでないと添削はできない。他人の書いたプログラムをちょっとでも直そうとした場合と同じだ。ほんの少し文を直そうと思えば、その人の言いたいこと、論理、強調点、目的、立場、前提条件、視野範囲、読者対象を把握しなくては、添削する勇気がわいてこない。それを知らずに他人の文章に手を入れる人は勇気があると言うべきか、無謀と言うべきか。

 文章の添削は、それをされる方も嫌な感じがする。自分の文章に赤を入れられると、たいていの人は「わかっちゃいないな。私が言いたいのはそういうことじゃない」と思う。赤を入れられた文章はつるりとして、確かに流れは良くなったかもしれないが、筆者が言いたかったこと、強調したかったことを、逃してしまっているかもしれない。

 作文の指導に必要なのは、実は添削ではないかもしれない。添削ではなくて、コメントの付け方なのではないか。よく考えると、他人の文章を読んで、自分なりのコメントをつけることを我々はまったく練習してこなかったのである。文章や文学を読んで鑑賞することは確かに学校で学んできたのだが、それを批判的に読み、自分なりのコメントをつけるということをしてこなかった。そしてコメントをもらって文章を書き直すという訓練もしてこなかった。