KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

外づらのいい人・内づらのいい人

 「内づら・外づら」というのは「内面・外面」と書いていいようなんだが、そうすると「ないめん・がいめん」と読まれそうなのでひらがなにしてみた。

 「あの人は外づらばかり良くてね」というのはよく聞く悪口だが、「あの人は内づらばかり良くてね」というのはあまり聞かないし、それは悪口なのかどうか。「内づらのいい人」というのは、たとえば会社では強面で、だめなヤツを叱りとばしたりしているのに、家に帰ると一転して優しいパパになったりする人のことなのだろうか。だとしたら、むしろかっこいい。悪くない。これはほめことばではないか。だが「内づらのいい人」は外では厳しい評価を受けやすいので、あまりほめことばとしても使われない。「あいつはああ見えても内づらはいいやつなんですよ」と言われてもあまりフォローになっていないような気がする。

 一方「外づらのいい人」というのは、身内には厳しくあたるのに、外ではへこへこしているような場合を指す。身内というのは話題の範囲によって変化するから、家庭の内/外、会社の内/外、部署の内/外、というぐあいに場合によって変わる。人間はたいていの場合は「外づらのいい人」になりやすい。身内はすでに気心が知れているから、少しくらいぶっきらぼうにしても通じると考えているし、万一機嫌を損ねてもフォローできるのに対して、その外では、何が起こるかわからないし、危害を加えられるかもしれないのだから、下手に出るに越したことはないのである。こう考えると「外づらのいい人」というのは悪口だが、たいていの人はそうであるし、そうでない人は「社会性に問題がある」と言われたりするだろう。

 それでもなお「外づらがいい」と指摘されるのは、外の人に対してあまりにも自分を殺しすぎた場合だろう。まるで自分に意志がないように外の人のいいなりになっているような場合。しかし、いったん身内のエリアに戻ると、そのことに対してぶつくさ言い続けているような場合。その見苦しさに人は「外づらのいい人」というラベルを貼るのだ。

 「内づら・外づら」について、あまり考えることなく書いてきた。しかし、これはひょっとすると、自分で持っているWebページや掲示板での顔とその人が外に出ていった時の顔、なんかにも当てはまるかなあなどということを考えている。サイバースペースでは「内づらのいい人」が圧倒的に多いのではないかということを直観する。