KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

コートという装置の発明

 バドミントンは相手のコートめがけてシャトル(羽根)を打つ競技だ。そんなことは誰でも知っている。

 しかし、重要なのは「相手のコートめがけて」打つということで、「相手そのものめがけて」打つのではないということだ。もし、相手めがけて打っていたらなかなか勝負はつかないだろう。もちろん、相手の真正面に向かって打つことは戦略としてある。それが一番返しにくいことが時としてあるからだ。しかし、通常の戦略としては、相手のいない、空いている場所に球を返すのがよい。それだけ相手を走らせ、ミスを誘うからだ。その次の戦略としては、相手が空いている場所をカバーしにいくということを見越して、元にいた位置に打つということだ。このような単純な戦略の組み合わせによって試合が成立している。

 つまり、コートという不動の枠と、たえず動いている相手の位置との関係によって、どこに球を打つかという戦略が次々と作られ、実行されていく。

 誰だか知らないが、コートという装置を発明した人は偉大だ。コートがあるおかげで、とんでもない方向に打ったり、ただ力任せに遠くにとばしたりした場合は「アウト」となり、負けるのである。もしコートという装置がなければ、単なるがむしゃらな人が勝ってしまう。コートがあるからこそ、球が一定の方向に飛び、その中で美技が作られるのだ。コートは単なる線ではなくて、試合を成立させ、美技を生み出す魔法の装置なのである。

 そしてまた、コートは、試合をしている人と、ギャラリーとを明確に分ける。ギャラリーはコート内に入ることを禁じられている。ギャラリーができることは、球のイン・アウトを判定することと、美技に対して拍手をすることくらいである。

 コートという装置が成立しているかどうかをいろいろなケースに当てはめてみるとおもしろいかもしれない。たとえば一対一の議論というものにはまだコートが成立していない。議論にはイン・アウトを判定する基準線がない場合が多い(競技ディベートではかなりコートが明確になっているが)。また、興奮したギャラリーがコート内になだれこんで収拾がつかなくなる場合もある。応援以外にギャラリーができるのは、競技者に対してイン・アウトを教えてあげることくらいである。

 議論というのは、まずコートを決めることから始めなくてはならないことが多い。そして、コートを決めたら、それで試合はほとんど終わっていたりするのである。