KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

社長と学長と労働者

 僕は大学を出たあと2年間会社勤めをしていた。人事部に配属されていたので、秘書を従えて廊下を歩く社長や副社長を時々見ていたのだが、「いつか社長になってやろう」という気は起こらなかった。今の若者で「いつか社長になってやる」と思っている人はどれくらいいるのだろうか。少なくとも僕は自分が社長になっているイメージを描くことはなかった。それは社長になれる可能性や能力の問題ではなく、ただひたすら想像外のことだったのだ。自分は一生涯、一人の労働者としていつづけるだろう、と考えていた。それは今も変わっていない。

 もちろん社長だって労働者にすぎないわけだけれども、ただの労働者とは違う。トップなのだ。会社の進路を決め、ポリシーを打ち出し、ある程度のカリスマ性を持っていなくてはつとまらないものだ。トップの顔は、その会社のアイデンティティーであり、その会社で働く者の心理的なよりどころになっているはずだ。社長になる人とそうでない人の差は意外に大きい。

 僕は「そうでない人」の一人として生きるだろう。現在の身分は(無試験で採用された)公務員。スト権のない労働者だ。大学にいて違和感を覚えるのは、そこらじゅうにやたら「偉そうな人」がいることだ。偉い人ではない、偉ぶる人だ。「いつかは私も学部長、学長に」と思っている人が多いのだなあ。学内政治の力学で学長を選ばれては困る。本当にふさわしい人だけが学長になってほしい。「そうでない人」として切実に思う。僕はふさわしい学長や学部長の下でならば、歯車になって働きたいと思うだろう。

 社長になるにもいろいろ苦労があるのだろうが、その人の働きについての社員の評価は意外に正確である。ふさわしくない社長は早晩引き下ろされる。手足を動かし、成果を収めたかどうかについて人々は実によく見ている。学長もそれ以外の教員も、手足を動かし、成果を収めたかどうかについて評価されるようになっていくだろう。そもそも労働者なのだから当然だ。口先だけの人がまず相手にされなくなるという風土に変わっていくのではないか。いまさらとは言うまい。