KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

罪に対する量刑の問題

 昨日、卒業生にタロット占いをしてあげることを書いた。岡山大学の長谷川芳典さんは、研究室のホームページやゼミ合宿の記録などをCD-ROMに焼いて渡しているそうだ。これはいいかもしれない。自分の書いた卒論や修論を将来読み返す人がどれくらいいるかは別にしても、何か卒業の記念になるものをと考えたら、なかなかいいのではないか。

 私の研究室でも、卒論・修論はすべてワープロ書類になっているので、公開しようとすれば、それをHTML化する手間だけでできる。実際これまでには、本人の労力でHTMLにして公開されている例がある。今年度から卒論・修論をすべてWeb公開するようにもっていこうと考えている。

 さて、話題になっている山口県母子殺人事件の裁判だが、Web日記でもたくさんの人が取り上げている。私もたまたま被害者の夫の会見をニュースで見てしまったので、軽はずみな感想は書けない。とりわけ「いっそのことなら無罪にして欲しかった。釈放されたら私が殺す」という言葉の重み。私も同じ状況になったら同じことを言うのではないか。

 週刊文春(3/30号)の「ニュースの考現学」(猪瀬直樹)でこの話題が取り上げられている。猪瀬は、一度殺人を犯し、無期懲役判決の後、仮出獄で再び殺人を犯したという実例を3件挙げている。この「殺され損」のケースは確かにひどいものだが、それを取り上げるのであれば、無期懲役刑で出獄したあとうまく更正したというケースの数も取り上げなければ公平とは言えないだろう(そういうフォローアップ調査が行われていれば)。無期懲役仮出獄のシステムが適切であるかどうかは、このバランスによって考えなければならない。

 どのような罪に対して、どれくらいの量刑が妥当であるかは、心理学の問題である。実際、一定の罪を犯した人が美人であるかそうでないかによって、妥当とされる量刑がどのように変化するかという社会心理学の研究もあるくらいだ(アメリカで)。顔によって量刑が影響を受けるのはまずいのではないか、というのが良識的な反応だろう。しかし、こんな実験をするまでもなく、現実には、顔だけでなく、逮捕されたときの態度、反省の度合い、はては食事の取り具合によって妥当と考えられる量刑は確実に影響を受ける。もし、被告の態度や発言によって、その反省の度合いが正確に計れるとしたら、裁判官は第一級の心理学者でなくてはならないはずだ。しかし心理学者は誰でも反省の度合いを測る物差しを作ることが困難なことを知っている。

 私は死刑は廃止したほうがいいと思っている。死刑よりも効果的な犯罪抑止システムは可能だという可能性に賭けている。しかし、万が一、自分が当事者になれば、相手を殺すかもしれない。それは平穏な日々を送っていた実験心理学者がある日突然、現象学的心理学者に変貌するようなものかもしれない。