KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日本型の研究費システム

 起きたら朝だった。それも私としてはかなり早い5時台。しまった。日記を書かずにそのまま寝てしまったのだ。

 私の夜のスケジュールはこんなかんじだ。8-9時に子供を風呂に入れる。家族全員で寝る体勢にはいる。子供たちが寝たところで、親二人は起きる。普段はここで日記を書いているわけだが、昨日はそのまま寝てしまったらしい。不覚。

 まあくんも愚一さんも科研費(文部省から出る研究への補助金)が採択されたということで、おめでとうございます。実は私も今年採択された(2年間の計画)。科研費といえば、助手時代に1回受かったきりだったので、10年以上ご無沙汰だった。毎年申請書を書いて、そのたびに不採択通知を受け取るのは、気分が悪いというよりは、「学習性無力感」を催させるほどのものだったが、採択された今だけは素直に喜びたい。

 長谷川さんは、科研費の審査について、審査員や評価を公表すること、また計画が終わったあとの成果の検証をすることが必要だと書いておられるが、正論だと思う。

 今のシステムでは審査員は当該年度が終わったあとに公表されるようだ。とはいえ、誰が審査をしているかは風の噂で耳に入ってくる。噂はかえっていろいろな憶測を呼ぶのであまりよくない。公表できるならしたほうがいい。実際、研究公募をしている財団の中には審査員名を公表しているところがある。

 落選した場合に、その申請がどれくらいの評価だったかを申請者にフィードバックするシステムは去年から稼働している。私は去年落選して、しかしその評価自体は悪くないものだったので、慰められた。すくなくとも、このシステムは「何をどうしてもダメだ」という学習性無力感を避けるために有効に働いているように思う。

 科研費が当たらなかったときには、「通常の個人研究費でなんとかなる」と負け惜しみ気味にいっていた。しかし、これも今年から(実質的には来年から)導入された「個人研究費は(実験系では)1/3に減額、残りの2/3は大学に裁量権を与える」という制度によって成り立たなくなった。まあくんの言われるように、研究費が必要なら周囲を説得して金額を要求していくことが必須になってきた。

 研究費のシステムとしてはどんどんアメリカ型に近づいている。あとはオーバーヘッド制だ。この制度は、研究費を獲得してきたら、その何割かを大学に収めるというもので、これによって優秀な(予算を獲得できる)研究者は大学から優遇される。

 日本の国立大学の場合は、科研費をはじめとする研究公募の申請件数や採択件数が、その大学への予算配分に影響するような制度が動き始めそうだ。アメリカと違うのは、予算獲得などの個人の努力が個人にフィードバックされないで、「学部全体でがんばりましょう(なぜなら学部への予算配分に影響されるのだから)」という形に置き換えられるという点だ。少なくとも表面的には「みんなでがんばろうよ」という形に翻訳されるのが面白い。

 日本型の研究費システムがどうなっていき、具体的にどう研究活動に影響していくのか観察していきたい。自分がその渦中にいるわけだが。