KogoLab Research & Review

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島宗理『パフォーマンス・マネジメント――問題解決のための行動分析学』

パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学

パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学

 島宗理『パフォーマンス・マネジメント――問題解決のための行動分析学』(米田出版、2000、1700円)を読んだ。現実の社会や組織や個人のさまざまな問題を解決するために行動分析学をどう使っていけばよいのかを、具体的な事例を取り上げて、背景となる研究論文を駆使しながら説明していく。この本は、実際に大学のテキストとして使用して何度も改訂をしたものだ。この本そのものがパフォーマンス・マネジメントの成果の見本のようなもので、とてもわかりやすく、同時に、ツボを押さえたものになっている。

 姉妹書の『行動分析学入門』(産業図書、1998)は行動分析学の内容を正確に詳細に説明している教科書だ(それでも随所に挿入されるストーリーは具体的で面白い!)。それに対して、『パフォーマンス・マネジメント』はそれをもっと噛み砕いて、実践的にしたもの。理論的なものよりも、実際にどう考え、どう使っていくのかということを知りたいという人は、こちらを先に読むことをお勧めする(それでも行動分析学の理論は自然に身に付いてしまうから心配ない)。

医学の世界では研究と実践が密接に関連している。新しい薬品や治療法は、研究でその効果と安全性が実証されない限り、決して実用化されない。本来、行動の科学でもこれが当てはまってしかるべきである。ところが、学校教育も、公共のサービスも、犯罪防止も、地域社会の様々な問題への対処は、ほとんどが勘や直感や経験に頼って行われてきた。こうした方法はうまくいくこともあれば、失敗することもある。問題は、何が原因で成功あるいは失敗したかが永久に明らかにされないことだ。したがって、成功や失敗の積み重ねによって問題解決のための方法を改善していくことができない。(p.84)

 パフォーマンス・マネジメントは行動分析学を使って問題解決のための確実な方法を提供する。この本はとりわけ、教師や塾の先生、パソコンのインストラクター、スポーツのコーチなどあらゆる意味で何かを教えることを仕事にしている人や、会社などでプロジェクトを指揮する人、リーダー、管理職の人に必読の本と言える。

 行動分析学は「自分の行動は自分の意志によるものだ」という私たちが当たり前に信じていることを疑う。

そもそもの問題は「自分の行動は自分の意志によるものだ」という迷信にあるのかもしれない。そう、これは迷信である。強化の原理や弱化の原理から分かるように、行動は環境との関係、すなわち行動随伴性によって引き起こされたり、抑えられたりする。意志の力によってではない。

 このことは、たいていの人に「なんと非人間的な考え方なんだろう」という拒否反応を引き起こさせる。しかし、それは逆なのだ。

だから自分の行動を完璧に管理できないのは、むしろ当然なのだ。それを知らないと「自分は意志の弱い人間だ」と個人攻撃の罠にはまってしまう。

 つまり、自分の行動の大部分は行動随伴性によって導かれると考えれば、自分の「意志の弱さ」を責めることはなくなる。そうではなくて、どういう仕組みで行動するのか/しないのかを分析することができる。それが問題解決への第一歩になる。意志の弱さを責めてもどうしようもない。それより、状況を科学的に(データに基づいて)分析して改善への一歩を踏み出そうという、非常に人間的な科学なのである。

 話は跳ぶ。

 「答えを知っている研究者/実践家」がいるんだと思う。心理学の中では、それはアドラー心理学行動分析学だと私は思っている。行動分析学者の誰かが「私は答えを知っている」と言ったわけではないが、本を読んだり、話を聞いたりする限り、そう感じる。アドラー心理学ではどこかで「答えを知っている」というのを読んだことがある。

 「答えを知っている」というのは不遜なのではない。逆に、謙虚なのだ。問題空間を厳密に定義し、その範囲内では「我々は問題解決のための効果的な方法を知っている」と宣言しているのだ。アドラー心理学行動分析学もきわめて工学的で問題解決指向である。実践のフィールドの中で常にその理論を鍛えてきたからこそ「答えを知っている」と言うことができる。

 アドラー心理学行動分析学というまったく異質のものに「答えを知っている」という共通項を見いだした。そしてそれが、この二つの心理学が世間的にメジャーにはなっていない理由のような気がする。世間はあからさまに「答えを知っている」と宣言する人々や理論をそれとなく避けるからだ。たいていの人は「答えは分からない」という状態の方を好む。「最終的にはどうなんでしょうねえ」という結論を好む。なぜなら、答えが分からない、あるいは答えを知らない方が生きて行くにはラクだからだ。そうしたラクさを越えた次の一歩を踏み出すための科学がある。