KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

答えを知っているということ

 23日の日記で次のように書いた。

「答えを知っている研究者/実践家」がいるんだと思う。心理学の中では、それはアドラー心理学行動分析学だと私は思っている。行動分析学者の誰かが「私は答えを知っている」と言ったわけではないが、本を読んだり、話を聞いたりする限り、そう感じる。

 これを、なるべく目立たないように文章の最後にさりげなく置いた。「答えを知っている」ということが厳密にはどういうことなのかを自分で定義できないままに書き留めたからだ。公式な文章にはまだ書かないような「傷つきやすいアイデア」というほどのもの。

 それを、長谷川さんは見逃さず、日記読み日記でこう取り上げた。

 行動分析家が「答えを知っている」かどうかは何とも言えない。行動分析の真理基準は原則として予測と制御の有効性という相対的なものだから、究極的な答えを知っていると宣言すること自体ナンセンスだと考えていると思う。行動随伴性がすべての原因であると仮定したところで、その中で同定・制御可能なファクターはごく一部にすぎないことでもあるし...。

 このおかげでだいぶクリアになった。私が「答えを知っている」ということばで言いたかったことは、「究極の答え」などではなく(パラダイム論やその後の科学哲学では「究極の答え」などないということになっている)、まさに「有効な予測と制御ができること」ということだ。そして、これは行動分析だけではなく、一般的な科学の基準としても使われている。予測のできない理論やモデルは有効ではない。社会現象や事件に対する、よくある後付けの説明は、予測に役立たない場合は科学とは言えない(心理学者もよくやる)。

 ポイントは、行動分析学者が、行動随伴性という枠組みを使い、なおかつ、すべてのファクターが同定・制御可能であれば、すべての行動や行動の変化が予測できると考えているかどうかだ。もしそれがイエスであれば「答えを知っている」。私の印象では、B.F.スキナーはそう考えていたのではないかと思えるのだけれども、どうなのだろうか。

 さらに妄想をふくらませる。もし予測がうまくいかない場合、それはモデルそのものが間違っていると考えるのか、あるいは、モデルに組み込むべき変数に未知のものがあるか、あるいはデータの取り方が不完全であると考えるのかは、微妙な問題になってくる。それは行動随伴性というクリアな枠組みでも、なお関わってくる問題なのではないだろうか。だから、行動分析学と、因果関係を推測しようとする構造方程式モデリングのような、一見互いに交わりのないような考え方にも接点があるような気がしている。