KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

Web日記を書かなければ単位は出さないよ

 「Web日記を書かないと、ゼミの単位は出さないよ」などと言って、ゼミ生をおどしている。それは、率直に言えば、私自身の希望としてゼミ生の日記が読みたいということだ。しかし、実はそれだけではない。Web日記を書くことが、自分の活動を振り返り、さらに行動するためのよいきっかけになるということだ。

 自分の大学生時代を振り返ってみれば、それは一番本を読んだ時期であり、ものを考えた時期であり、友達と話をした時期であった。しかし、そうした活動はしばしば堂々巡りにおちいり、なんの指針も見いだせないままに、時間に流されていたような気がする。さまざまな情報が飛び交い、人間関係に翻弄され、悩むこともある。そうした時期に、もしWeb日記を書いていたら、もう少し頭の中を整理できて、適切な行動ができたのではないかと思うのである。

 誰にも見せない、日記帳に書く日記はダメである。これは私自身が体験済み。日記帳に書く日記はしばしば問題を解決させるどころか、むしろ問題の解決を遅らせる。日記帳に書くことによって、その日のストレスは解消されるが、かえってそのために行動ができなくなるのだ。一方、他人に読まれることを前提としたWeb日記では、日記帳の日記とは逆に、行動することを促進する。それはどういう働きによるのだろうか。

 専修大学山下清美さんが、業界誌(読売ADリポートojo[オッホ])のために寄稿された原稿をWebで公開している。

  • インターネットは自分や他人との関係を振り返る場になり得るか——個人ホームページの心理学
  • 自分を伝えるために書く、自分を見つめるために書く——なぜ人々はWEB日記を書くのか
  • 自己語りから、語り合う場へ——WEB日記によるコミュニケーション

 この2回目の記事では「他者の存在に支えられたWeb日記」ということの意味が説き明かされる。私のこの日記も材料のひとつとして取り上げられている。

 読者のいないところで自分を振り返るのは、独りよがりになりやすい。読者を意識して振り返ることは、ひとつの綱渡りだ。完全に読者のためだけに書くのではない。かといって、完全に自分のためだけに書くのでもない。その中間地点だから、危ういのである。どっちにころんでも、うまく行かない。読者のためだけでもない、自分のためだけでもない、その絶妙なバランスの上に立って書かれたものがWeb日記として面白い。Web日記というジャンルがあるとすれば、その特徴は「自分と読者の中間地点で書かれたもの」ということになるだろう。