KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

知能テストで知能は測れるか

 IQ、知能テスト、gifted children/英才(教育)といったことが、いくつかの日記でやりとりされている。私は知能については専門ではないし、心理学書でかじった程度のことしか知らない。以前、外国の文献を検索していると、gifted childrenについての教育やそれを専門に扱っているジャーナルがよく出てくるので、いったいこれは何だ、と不思議に思ったことを覚えている。giftedに対する特殊教育〓〓それに対応する概念を自分が持っていなかったということだ。

 IQテストや類似のテストで測られたときに、ベルカーブの下の裾野に位置する数パーセントの子供と、上の裾野に位置する数パーセント子供に対して、それぞれに適した教育環境を与えようとするアメリカは一歩先を進んでいると思う。日本では確かにgiftedに対する配慮はあまりなかった。

 私が小学生だった頃(30年ほど前)は、小学校で知能テストが行われていた。迷路を解かせたり、立方形を積み上げた図からそれが何個あるのか、というような問題だったような記憶がある。そこから得られたIQ値は担任の先生にフィードバックされ、アンダーアチーバー(IQに比べ学業成績が低い子)やオーバーアチーバー(IQに比べ学業成績が高い子)に注意して指導するように指示されていたと思われる。

 今から考えると、これはピグマリオン効果を生みやすかったのではないか。ピグマリオン効果というのは、先生が「この子は本来頭の良い子だ」と思っていると、知らないうちにそういう接し方をし、子供もその態度や期待を感じ取り、結果として本当に成績が上がって行くという現象だ(逆もあり得る)。そうすると、生徒の学業成績はある時期に測られたIQに回帰していくような現象が大規模に起こっていたかもしれない。今の小学校では知能テストはやっていないと思うが、実際はどうなのだろうか。

 話ははずれるが、最近の心理学ではこれまでの知能観やそれに基づいた測定法、知能テストに対して新たな展開がある。つまり、これまで知能テストで測られてきたような知能観では不十分だという異議申し立てが広まりつつある。

 たとえば、R.J.スタンバーグという心理学者は、「成功に導く知能(サクセスフル・インテリジェンス」という考え方を提唱して、これまでのIQだけが知能なのではないと主張する(『知脳革命』、潮出版社、1998)。 この本について私が書いた紹介から引用すると、

知能テストで測られるIQが低くても成功している人はたくさんいる。逆に、IQが高かったにもかかわらず平凡な人生を送る人も多い。つまり、IQはその人が成功するかどうかを占う指標としては失格である。この本は成功を占う知能として「サクセスフル・インテリジェンス」とはどういうものかを定義しようとする。ダニエル・ゴールマンの「EQ」、ハワード・ガードナーの「多元的知能」とともに、知能とはIQだけではないという主張を展開する。

著者は知能には次の三つの形態があり、それらを総合的に育んでいくことが重要だという。

  • 分析的知能
  • 創造的知能
  • 実践的知能

 また、道田さんの読書と日々の記録の4月に、同じ著者の『思考スタイル −能力を生かすもの』(1997/2000 新曜社 \2500)が紹介されている。そこから引用すると、

この本の主なテーマは次のとおり。(p.10)

  • 学校でもその他の組織、家庭、ビジネス、文化でも、特定の思考法が高く評価される。
  • 思考のしかたが組織の評価する思考法と合わない人は、たいてい罰せられる。

ここでいう思考のしかたが「スタイル」である。思考スタイルとは、考え方の好き嫌いのこと。能力ではない。能力の使い方の好みである。スタイルは、能力や努力に次いで、成功や失敗を規定する第3の要因であるにもかかわらず、これまで重視されてこなかったために、いろいろと問題を生んできた。たとえば、学校で、「できない子」だと思われている生徒は、単に、スタイルが教師と合わないというだけのことが多い(p.16)。それは仕事でも日常の人間関係でも同じであろう。自分が尊重するものと、「正しい」ことを混同(p.127)してしまうのである。面接試験における面接者と試験官の関係も同じである(p.166)。

 「IQとは何か?」と聞かれたときに「IQテストで測られるもの」という操作的定義を回答するのは簡単だ。しかし「IQで一体何を知ろうとしているのか」と突っ込まれれば、心理学者は別の回答を用意しなければならない。それが最近の「知能」をめぐる理論の進展になっている。