KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

愛、交友、仕事〜人生の課題

 金沢での野田俊作さんの講演会を聴きにいった。午前に講演2時間、午後に質疑2時間の構成。聴衆は50人前後。その内容の私風メモを書き留める。

 アドラーは「人間が抱える問題はすべて対人関係の問題である」という。しかもそれは、「現在における」対人関係の問題だと。たとえば、拒食症そのものは直せない。しかし、人間関係を改善した結果、拒食症は治るかもしれない。拒食症という「症状」をその人自身が「何のために使っているのか」が問題なのだ。

 「心の悩み」は、実はすべて「つきあいの悩み」である。つきあいの悩みを触らずに、心の悩みを触ることはできない。

 アドラーは人生の課題(ライフタスク)として「愛、交友、仕事」の三つを挙げた。これを人間関係の軸で並べてみると、「長続きし、運命をともにする」人間関係(=愛)、「長続きするけれども、運命はともにしない」人間関係(=交友/友達の借金までは肩代わりしない)、「長続きしない」人間関係(=仕事/職場を移れば関係もとぎれる)と整理することができる。問題が起こったときはまず、「長続きし、運命をともにする」人間関係(=愛)の領域で問題があるかどうかを探るのがよい。

 アドラーは「競争をやめて、協力しなさい」という。夫婦喧嘩は「何かを決める」ために始まるのだけれども、やっているうちに「どちらが勝つか/どちらがボスか/どちらが正義か」ということに目標がすり替えられる。しかし、「正義」には実は意味がない。究極的には、正しいとは何かということは決められない。たとえば、キリスト教の枠組みの中では正しいことは決まるかもしれないが、それは宗教が変われば互換性がなくなる。競争をやめて協力するとは、人間は助け合って生きていくしかないのだ、という原点に戻ることだ。

 問題となっている人間関係がわかったら、そこから降りること、つまりその競争から降りることだ。人間関係に勝つのも負けるのもまずいが、勝つのはよりまずい。なぜなら、人間関係に勝ってしまうと、あとで復讐を受けることになるから。だから負ける方がいい。しかし、一番の方法は降りることだ。ケンカをやめる勇気を持つことだ。そして、普段落ち着いているときに、たくさん話をしておくのがよい。それは、どちらが正しいかということを決めるのではなく、どういうアクションをするのがいいのかということを話すことだ。

 アドラー心理学にも流行というものがある。昔は、どういう言葉かけをするのかが問題であるといわれた。言葉かけは今でも重要なポイントではあるが、それだけではうまくいかないことも多くなってきた。たとえば「ありがとう」と言って感謝しても、「気持ち悪い。やめて」という反応をされることがある。とりわけ、子供を操作したり、道具的に使うということが、言葉かけの裏に隠されている場合は問題である。そこではむしろ言葉かけよりも、相手の話を聞くこと、そして相手がどうしてほしいのかをわかることが大切なのである。そのために「開いた質問」をする。開いた質問とは、はい/いいえで答えられない質問、つまり「いつ、誰、どこ、なぜ、どうやって」などの質問のこと。また「もうちょっと詳しく聴かせて」なども開いた質問である。

 子供に対して、常に選択肢を用意することも重要だ。たとえば、電車の中で暴れている子供に対して、「電車に乗っているなら静かにしてね」という選択肢と「暴れたいのなら、次の駅で降りて暴れてね」という選択肢を用意して選んでもらう。子供が暴れる方を選んだなら、実際に次の駅で降りて暴れさせてあげる。

 とはいえ、選べないというケースもある。一つ目は「自然の法則」。たとえば、歯を磨かないと虫歯になり、痛くなる。これには選択の余地がない。いやがる歯磨きを楽しい遊びに変換する工夫(たとえば歯磨きの時だけに特別の歌を歌うなど)は親の仕事である。二つ目は「社会の決まり事」。法律以外にも社会の慣習がたくさんあり、それらは子供に教えておいた方がいいことだ。最後は「論理の法則」。

 選択肢ということを学校教育に適用してみる。アドラースクールでは、学年や決まった学級という枠をとっぱらって、すべての科目の内容を500の単元に分けて、クラスを用意している。生徒は毎週テストを受けて、自分がどのくらいの学習レベルなのかを把握して、好きなクラスを受けることができる。難しいクラス、易しいクラスを受けることも可能だが、子供はすぐにそれは面白くないことに気がつき、自分にちょうどあったクラスを選ぶようになる。

 今の日本の学校システムはとうに破産している。今の学校には子供に与えるビジョンがないからだ。一昔前には「学校はきゅうくつだが、我慢すればいいことがある」という認識があったので、うまく動いていたのだ。しかし、それは今はない。だから「なぜ学校に行かなければならないのか」という問いに答えることができない。その答えのひとつは、「あなた方には力があるけれども、それをうまく使うためには訓練する必要がある。それが学校という場なのだ」。学校卒業後の具体的なビジョンを子供に与えられるかどうかがポイントだ。

 歴史を見ると、「お国のために生きよ」が否定されて、「自分のために生きよ」という考え方が一般的になった。そして今の子供たちができた。しかし、私利私欲(金を儲けたい、有名になりたい、他人から好かれたい)というエゴイズムをどうやって社会にプラスの形にするかが問題なのだ。私利私欲でやっているけれども、それが同時に相手にいいことをしているという形をどう作るのか。たとえば、私(野田さん)が、こうして講演会をしているのは、(1)お金がほしいから、(2)自分がいろいろなことを知っていることを威張りたいから、である。でも、聴きに来ている皆さん方は損をしていない。両方がお互いに良かったなあと思えること、それをどうやって実現するかがポイントだ。

 子供がかわいく思えるのは、子供がいい反応をしているからだ。いい反応というのは、親自身がそうさせているのである。逆に子供の機嫌が悪いのは、親がオニだからだったりする。相手の反応が悪いときには、自分自身のやり方を点検してみるのがよい。

 アドラー心理学の「ライフタスク(愛、交友、仕事)」を平たく言えば、「家内安全、子孫繁栄、商売繁盛」だ。しかし、死の問題や神の問題などの宗教的要素をアドラー心理学は慎重に排除した。それは「アドラー心理学+○○教」という組み合わせで全体が完成するように設計されたといってもいい。

 「勇気づけ」の定義を次の2点で考えている。ひとつは、「自己管理」ということ。自分の人生は自分自身が引き受けること、そしてそこから逃げないということ。ふたつめは、「貢献」ということ。自分の力を他人のために使うということ。