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国立大学は多すぎる

 国立大学は多すぎる、と森首相が言っている。

 森首相は十三日、首相官邸で開かれた政府主催の全国都道府県知事会議に出席し、全国の国立大学について、「ブロックごとに集約していくことが大事ではないか」と述べ、東北や九州などの地域単位で再編すべきだとの考えを示した。

 これは、栃木県の渡辺文雄知事が「少子化で教員採用が激減し、国立大学の教育学部を卒業して教員になる率も減っている。教育学部を一県おきにしてはどうか」と提言したのに対し答えたもの。首相は「教育学部だけの問題でなく、国立大学全体の再編を考えることが大事だ。少子化の時代に国立大を網羅することがいいのか。むしろ地域地域で役割分担することが必要だ」とも語った。

 国立大は現在九十九ある。教員採用が減少していることから、文部省は将来の独立行政法人化をにらみ、教員養成大学・学部の再編を検討している。首相の発言も基本的にはこれに沿ったものと見られる。

 会議後、首相は、首相官邸で記者団の質問に答え、「今だって国公立大学は多過ぎる」と述べ、統合の必要性を強調した。 (Yomiuri On-Line 09/13)

 教員養成に関して言えば、確かに教師になる人が減っているから、これは縮小せざるをえないだろうね。ただ、すぐには教育学部の教員のクビを切ることはできないから、「教員養成をしないコース」を教育学部内に作って、そちらに人(学生定員と教員)を移すことでしのいできた。このコースは教員免許を取らなくていいので、「ゼロ免」と呼ばれている。

 教員養成コースの定員をどんどん減らし、ゼロ免コースの定員を増やすことで吸収したので、今ではゼロ免コースの学生の方が過半数を超える教育学部も出てきた。そういうところは、教育学部を改称する場合もある(たとえば教育人間科学部などに)。でも、さすがにこれでは将来設計をすることができなくなってきたことに官僚も気づいた。

 そこでシナリオは次のようになるのではないか。

  • (1) ゼロ免コースの教員を他学部に移す。あるいは教養部に移す。
  • (2) 残って規模が小さくなった教員養成コースを何校か集めて統合する。

 教養部は90年代前半に解体されて(他学部にばらばらにされた)きれいさっぱりなくなっているのだが、最近では教養教育の見直しが起こっているので、もう一度作るという可能性もある。実際、教養部解体によって、教養科目を専門に教える教員がいなくなったので、大学側も困っているという状況もある。

 他人事のように言っている私自身も、教育学部のゼロ免コースに所属している。ゼロ免コースというのその出自からして、ご都合的なものだったから、いつ解体されてもいいという覚悟だけはある。ただ「情報」という時流に乗ったコースなのでしぶとく生き残ってきているだけだ。社会からのニーズさえあればコースは簡単にはつぶれないものだ(それにこたえているかどうかは別にして)。

 ただ、教育学部に所属しているということに、いつでもちょっとした違和感はある。

 私の見方では、教育学部は教員養成だけではない、と思っている。パソコンのインストラクターだってそうだし、塾の講師、家庭教師、スポーツのコーチ、企業内教育の担当者、アルバイターに渡すマニュアルを作る人、みんな教えるという仕事にかかわっている。「教える/学ぶ」ということをきちんと科学的にやって、それを実践まで持ってくるというのはけっこう大変なことだ。教員養成だけをするならば、教員養成学部と名乗ればいい。教育を研究フィールドにするならば、教育科学部とでも名乗るのが適切である。そこでは教員養成はしなくてもいいのだ。

 学校の教師だけが教える仕事を独占しているわけではない。逆に学校の教師の方が少数派というか、特殊ケースなのではないだろうか。たとえば、自分の人生を振り返って、その人からたくさんの大切なことを学んだというような人(先生と呼べる人)を想像してみたときに、その人が学校の教師である確率は意外に小さいのではないか。

 学校という装置がそもそも人工物であるから、そこであてがわれる教師も人工物に過ぎないのだな。それを教師は自覚しなくちゃいけないな。

 自分の先生(師)は自分で見つけなきゃならないってことだ。なんだか妙なところに来てしまった。ふう。国立大の教育学部はどうなっていくやら。