KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

会議は限りなくだめになっていく

40歳台というのはやはり働き盛りということなのだろう。

いろいろな会議に引っぱり出される。会議は好きじゃない。かといってメーリングリストだけのやりとりですませて、対面の会議を開かないという方法も完璧ではないようだ。まだ試行錯誤だが、広報関係の委員会をほとんどメーリングリストだけでやっている。メールのやりとりではどうしようもなくなったときに「じゃあ、一度集まりますか」という感じで集まるのがいいのではないかと思っている。集まらなくていいのなら、集まらないのに限る。

会議の数を少なくして、時間も短くするようにという通達が出ているはずだが、実態はあまり変わっていないのではないか。しかもこれには抜け道があることに最近気がついた。つまり、会議の中で、「この件についてはワーキンググループを作りましょう」と決めれば、どんどん子会議が増えていくのだ。これはたまったものではない。

会議については私たち自身が「ひとりで主張してもどうにもならないものだ」という学習性無力感を獲得してしまっているような気がする。たとえば最近の話で、教養科目のある科目と別の科目とが、時間割上問題がなくても、同時期に履修できないという意味不明の慣習があって、それを撤廃しようと発議したのだが、なんなく却下されてしまった。それも納得できる理由なしに。

そういう問題こそ徹底的にやりあうべきじゃないのかなあ、と思う。とはいえ私自身がそこにいたとしても、「ああ、もうこの人にいくら言ってもだめだな。時間の無駄だ」と思ってあきらめてしまったことだろう。私は実にあきらめのいい人間なのだ。

つまり会議で勝つためには他人の発言に耳を貸さないということにつきる。そのうち相手はあきらめてくれる。そうやって、その人の「他人に耳を貸さない」という行動が強化される。あきらめた方は無力感を学習する。こんなふうにして、会議という活動が全体としてだめになっていき、その形式だけが残る。