KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

科学のディスコースと民話のディスコース

ポストモダンな世界においては、科学のディスコースと民話のディスコースとがまったく対等な立場に置かれる。明白になったのは、モダンな世界で支配的だった科学のディスコースが、ディスコースのひとつの形にすぎなかったということだ。それは説得性をもっていた。しかしポストモダンな世界では、必ずしも説得性を持っていない。しばしば、民話的ディスコースの説得性に負けてしまう。

しかし、科学のディスコースが滅亡したわけではない。それどころか、テクノロジーの世界においてはますます支配的になり、先鋭化する。それは自動的にそうなる。しかし、テクノロジーといえどもそれは結局人間にとってなんぼのものであるから、テクノロジーもまた民話的ディスコースから逃れられない。その文脈の中でどうつかわれるかという問題になるだけだ。たとえば携帯電話がどう使われるかということが問題になるのであって、携帯電話のしくみそのものは隠蔽される。こうして科学のディスコースは先鋭化するけれども、一般社会にとっては理解不能のものになる。
それは一種、原始の時代にもどるようなものかもしれない。