KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ティーチャー・プルーフ

そういえば、教育工学会のシンポジウムで、ひっかかっていたことがあった。「ティーチャー・プルーフ」ということばだ。こんな文脈。

私の発表で、こういった。教育工学の中心的な目的は、どんなにへたくそな教師でもこの通りにやれば70点くらいのそこそこの授業ができるような方法や道具を提供することだ。

そうしたらこんな反論を受けた。それは、ティーチャー・プルーフといって教師の役割を矮小化するものだ。「この通りにやれば、できる」という教材やカリキュラムや方法を与えなければできないということを認めていることだから。

別にそんなことは思ってもみなかったが、まあどちらでもいい。

ティーチャー・プルーフの考え方を押し進めてきたアメリカの教師と学校現場(とりわけ公立校)はひどいことになっているから、ティーチャー・プルーフ的アプローチはダメなのだとも言われた。

???。逆ではないのだろうか。ティーチャー・プルーフが成功していれば、学校はひどいことにはならないはずだ。それがティーチャー・プルーフということの定義だ。問題は、ティーチャー・プルーフにしようとして、それが失敗しているということであって、ティーチャー・プルーフ思想が悪いわけではない。

ティーチャー・プルーフのおかげで学級崩壊になりましたというのは、自己矛盾だ。学級崩壊を起こさないことこそがティーチャー・プルーフであることの証明だからだ。要はティーチャー・プルーフのための研究と実践が失敗しているということなのだ。それは教育工学が未熟だからだ。

ティーチャー・プルーフ先生がいる学校と、金八先生がいる学校のどちらかを選ぶとしたら、私は迷わずティーチャー・プルーフ先生の学校を選ぶ。彼らは水準をクリアした技術者だ。安心して預けられよう。