KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

治療者も患者の物語に一緒に参加する

ナラティブ・セラピーの続き。

前回こんなふうに書いた。

ナラティブ・セラピーが効果的なのは、クライエント自身にその人が乗っているパラダイム(物語の集積)を治療という形で聞き出すからだ。クライエント本人に聞くのだから、間違いようなく、セラピストはクライエントが乗れるパラダイムを推測し、提供することができる。もちろんセラピストが広いレパートリーを持っていることが必要条件だが。

もう一つ重要な条件を忘れていた。アドラーネット(@nifty)で野田俊作さんは、「シンポジウムで、私や中川さんや久保さんが一生懸命言おうとしていたのは、「治療者も患者の物語に一緒に参加する」という発想のことです」と書かれている。

この発想をとるとすると、セラピストがレパートリーの中から何かヒットしそうな物語をクライエントに提供するというような図式は否定される。一緒に参加すべき物語は誰かが提供できるものではなく、その人が少しずつ紡ぎ出す物語に寄り添うことになるからだ。対等な立場での共同作業になる。

つまり、「「外から分析して治療する人」が心理療法家なら、「中に参加して治療する人」は魔法使いです」と野田さんが書いているように、クライエントの物語の扱いを外からするならセラピストであり、中に参加するなら、比喩的に「魔法使い」ということになる。魔法使いって何だろう? それは、その人の手にかかったら、必ず直ることを約束された存在だ。そういう存在になるためには、中に参加しなくてはならない。知恵を持って。

僕は、臨床心理学の話を聞くときは必ず教育の話に転移させて聞く。教育が私のフィールドだからだ。たとえば、学校では生徒は完全に「物語」を失っているよな、たとえあったとしても、教員はその物語に寄り添うこともできないよな、というような具合に転移させる。

さて、魔法使いを教育に転移させるとすれば、こんなことを考える。

最近の教育実践研究家の中には、相手の物語の中に参加することが重要だと主張する人が出てきている(ショーンの本を読むとそう感じる)。私がこれからはこの研究法しかないと感じているアクションリサーチも、実は自分の実践現場の改善のサイクルの中で研究を進めていくという方法だ。つまり、そこでは研究者自身は「外から分析する」ことなどできない存在なのだ。自分の現場に入って試して、ときおりそれを反省してみる。反省してみるときは分析家の立場だ。しかし、それは長続きしない。すぐに実践家としての自分の役割が待っている。そのサイクルをショーンは反省的実践家と名付けたのだろう。

「外から分析して教育を改善する人」がインストラクショナルデザイナーなら、「中に参加して教育を作りかえる人」は魔法使いだ。

ちょっと妄想じみてきた。