KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

私にもし悲しいと感じるときがあるとすれば

大学教員というのは、教育と研究と社会貢献をすることでお給料をもらっている。まあ、実質的には教育だけが給料の対象だ。コマ数を基準よりたくさん持てば何らかの手当がつくけれども、研究で夜中まで残っていても残業手当はつかないからね。

これはいいことだと思っている。研究に手当が付くと歯車が狂うだろう。研究を研究以外の道具、たとえば、昇進や昇級や地位や名誉の道具、にするとまずいことが起こるだろう。最大の害悪は研究者のHonestyが損なわれることだと思う。アメリカの研究者入門書には、まず第一にHonestyのないものは研究者になるべきではない、と明言してある。研究者には、Honestyと探求心だけが必要なのであって、たとえば業績や補助金獲得実績や学会内の役職なんかとは無関係なものだ。

私は自分を研究者だと考えているが、自分の研究内容をすべての人に認めてもらおうと思ってはいない。ただし、ほんの数人だけには認めてもらいたい。本来なら、全世界の中で誰一人として自分の研究を認めていないとしても、確固として立っているべきだろうが、私はそれほど強い人間ではない。ただ数人だけ認めてくれる人が必要なのだ。

その人たちが認めてくれていれば、その他の人が私のことをどんなに攻撃しようと、あるいは無視しようと私は平静でいられる。「何にもわかってないな……」とつぶやくだけでしのぐことができる。

私にもし悲しいと感じるときがあるとすれば、私が認めて欲しいと思っているその人が私を認めてくれないときだろう。

私は別に今悲しいわけじゃない。ただもし悲しいときがあるとすれば、の話だ。