KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

8年間尽くしてきたのに

白い巨塔」を2週分観る。

財前が「教授になるために8年間尽くしてきたのに……」とうめくシーンがある。

うーん、そこが違うんだよな。何かを得ることを目的として「尽くす」というのに違和感がある。それは「尽くす」とは呼べないんじゃないか。何かを得るために尽くすというのなら、それは「取引」なのだ。「尽くす」というのは「尽くす」以外に目的がないはず。つまり、尽くすことそのものが目的であり、出発点であり、終着駅なのだ。

そういう「尽くし方」をしていると裏切られる。別の目的があるから裏切られるのだ。

逆に、別の目的のない尽くし方をすれば、常に裏切られることはない。だって目的がないのだから、相手がどう行動しようとも、それは裏切りになりようがないのだ。

盲目的な尽くし方をすれば、裏切りを受けることはない。「財前君、君を教授にしてあげよう」と言われようが、「財前君、君は地方に行ってもらうよ」と言われようが、どうあってもかまわない。「そうですか。先生がそう思われるのなら…」と喜んでしたがうことだろう。それが「尽くす」ということなのではないか。

そんなことを考えていたら、自分は何かを取引していたのだろうかと思い当たる。もろちん地位とか名誉じゃない。そんなものは私には重荷なだけだ。私の幸せには何の関係もない。

じゃ、何か。相手の歓心かな。だからそれが得られなくなると裏切られたと感じるのだ。

相手の歓心を得ようとせずになお尽くすこと。そんなことが可能なのだろうか。